韓 氷(ハン ビン)
編集者・翻訳者
2005年度サントリーフェロー
韓 氷(ハン ビン)
編集者・翻訳者
2005年度サントリーフェロー
2019年10月末、パソコンに一通のメールが届きました。サントリー文化財団からのメールはユニークな知的活動の情報が多くて、いつも楽しみにしていますが、今回は2020年開催のサントリーフェローシップ地域文化研修旅行についての案内でした。これは「サントリー地域文化賞」の受賞者の皆さんを訪問する旅行で、メインテーマの一つは高千穂の神楽を見に行くという内容でした。いつものように「OBOGの皆さんも、ぜひ奮ってご参加ください」と書いてありました。
サントリー文化財団とご縁ができたのは2006年に遡ります。当時日本の大学へ留学中の私は1930年代の魯迅と新興木刻運動を研究テーマとしていましたが、サントリーフェローとして研究助成をいただくことになり、そのおかげで北京や上海などで新興木刻運動の痕跡を調べることができました。結局私は学問の道ではなく、より社会との接点を持ちたいとおもって出版の仕事に就いたのですが、闊達な気風に富むサントリー文化財団事務局の皆さんとは緩やかでありながら気持ちいい繋がりが続いてきました。ここ10年間、東京・北京・台湾をまたいだテント芝居の活動に関わっているため、演劇という表現行為への関心も強く、「高千穂の神楽見学というチャンスを逃す訳にはいかない」と、さっそく参加申込をして、その後関連資料を読み漁りながら出発の日を楽しみに待ちました。
2020年1月12日、熊本空港で事務局の皆さん、現役フェローの皆さんと合流しました。OBOGの中で私だけが参加したのはちょっと意外でしたが、ほとんどは初対面の皆さんと交流を楽しみながら、新鮮な刺激をいろいろもらいました。
今回の研修旅行は、実に盛り沢山な内容でした。高千穂では夜の神楽鑑賞の前に、昼間に高千穂峡の散策、高千穂神社や天岩戸神社、天安河原などの見学を行いました。つまり昼間に記紀神話に出てきた伝説の場所を実際に歩いてみた身体感覚を持ちながら、夜の神楽に臨んだのであり、そのため舞台で舞われた記紀神話の世界がいっそう全身的に伝わってくるのでした。
「全身的」と言っても、むろん内容を細部まで理解できたわけではありません。話の大筋は分かっても、一挙手一投足の「型」の中に鑑賞者からは気づくことができないたくさんの約束事が含まれているでしょう。しかしだからこそ、頭だけに頼らず全身的にその場を感じようとするのかもしれません。そうすると、昼間に歩いていた時に吹いていた高千穂の風と、いま目の前の舞台から巻き起こる気流との間に呼応する何かを感じました。
高千穂では毎年11月頃から翌年2月にかけて、町内の約20箇所にて夜神楽が行われるそうです。夕刻から始まり、翌日の朝方まで続け、舞は全部で33番もあるそうです。私たちが見たのは一般向けのダイジェスト版で、以下の4番です。手力雄の舞、鈿女の舞、戸取りの舞および御神体の舞。前の3番は一続きの流れで、岩戸に隠れた天照大神を探し出す有名な神話を表現した内容であり、第4番はイザナギの命とイザナミの命の睦まじい仲を表現する内容となります。落雷で倒れた樹齢800年の秩父杉で建てられた神楽殿の中で、多くの観光客にまじって舞台を眺めていた私は、舞手(ほしゃどん)の動きの中から確かな「勢い」を感じました。それは厳かなものではなく、むしろ愛嬌さえ感じさせる大らかなものであり、今日のほしゃどんたちは日常の中ではどんな営みをしているかな、と一瞬想像しました。神楽の見学前に開催された懇親会で同席した地元の観光協会や地域おこし協力隊の方々から、自分は神楽をやってますよと聞いた時ちょっとびっくりしましたが、郷土愛を隠さない彼らの眼差しや喋り方から感じた熱い何かは、ほしゃどんたちの動きにあるその「勢い」に通じているのかもしれません。
地域の住民たち自らによって伝承されてきている高千穂の神楽は、一種のアマチュアリズムと言えましょう。生活者は表現者であり、表現者は生活者であるという広大な地平から、大らかで伸び伸びとした表現が生まれてきたのではないでしょうか。
ちなみに、高千穂では神楽を学習する小中学生が増えているそうです。おお、それは最上の学習=教育ではないでしょうか。脳と体をフルに使って覚えては実践し、場の中でいろんな世代の人と触れ合い揉まれ合いながら成長し、神話の広大な世界観を最初の視座として獲得する――通常の小中学校教育とはあらゆる面で対照的であり、後者を反省させるような契機を含んでいると言えるでしょう。
アマチュアリズムという点からいうと、二日目に訪ねた熊本県山都町の清和文楽にも共通しています。道の駅に建てられたユニークな建物、「清和文楽館」の中で、地元の皆さんが「日高川入相花王――渡し場の段」を演じてくれました。気取りのない表現は大らかさとユーモアを持ち合わせ、エンターテインメント性に富んでいました。とくに姫が滔々たる川に飛び込み、大蛇に変身して恋人を追いかける場面はなかなかの迫力がありました。演目が終わったあと、人形と舞台を至近距離で観察できて、人形の顔が変化する仕掛けや舞台の奥行きの秘密などいくつか謎がとけたと同時に、この伝統芸能の豊かな表現力にあらためて驚嘆しました。現在熊本県に残る人形浄瑠璃芝居は清和文楽のみですが、その理由はやはり地域の暮らしに溶け込み、親から子へと伝承されていく中で長い生命力を獲得したからと思われます。
熊本空港へ向かう途中、今回の研修旅行の締めくくりとしてサントリー九州熊本工場を訪問し、ザ・プレミアム・モルツを試飲しながらしばらく歓談しました。ビール作りに対する知識が一気に豊富になったのは無論のこと、もっとも印象に残ったのは美味しいビールを作るためにまず美味しい水が必要であり、美味しい水が生まれるためにまず森づくりから始めなければならないと考えて、そのように行動しているというお話です。
眼の前の結果のみを追求するのではなくて、長い視野から、土壌から水から生命力のある文化価値を育てていく――それは今回訪問したすべての場所に共通する姿勢であり、サントリー文化財団の長年の活動に貫かれている姿勢だと言えるでしょう。原点に触れるような研修旅行に参加させていただき、誠にありがとうございました。
韓 氷(ハン ビン)
編集者・翻訳者
2005年度サントリーフェロー