舞台をまわす、舞台がまわる――山崎正和オーラルヒストリー
阿川 尚之 Naoyuki Agawa
山崎正和さんのオーラルヒストリーは、今から約10年前、2006年3月から2007年12月まで12回にわたって実施された。サントリー文化財団の特別研究助成を受けた「日本政治・外交と文化人のかかわり研究プロジェクト」の第1号という位置づけであったが、プロジェクトの中心人物である御厨貴さんの表現を借りれば、山崎さんから話をたっぷり聴いて「腹一杯になってしまった」ので、他の文化人のオーラルは行わなかった。今回本書の上梓により、その内容が初めて公になった。
私は御厨さん、苅部直さん、牧原出さんと共に、山崎オーラルの聞き手をつとめ、本書の編者の一人として名を連ねているので、宣伝めくが、この本は読み物として実におもしろい。第一に、オーラルヒストリーという形態を取っているものの、これは山崎正和という一人の希有な知識人の立身出世の物語であり、冒険談である。
機知に富んだ若者が逆境に置かれながら、ふとした出会いから運をつかみ、努力を重ねて大成功を収める。わらしべ長者からベンジャミン・フランクリンに至るまで、サクセス・ストーリーのパターンは変わらない。山崎さんの冒険は、敗戦とともにあらゆる秩序が崩壊した満州で、病身の父に変わって家族を守りつつ生き延びるという、想像を絶する経験から始まる。かちかちに凍り付いた首つり死体が梁からぶら下がる教室で、なにごともなかったかのように小学生たちが勉強を続けるという光景は、凄惨を越えてシュールである。敗戦から3年、父の死後内地へ帰還して高校へ進んだ少年は、飢えてはいたものの目前の死から解放されて知の世界に耽溺する。共産党の細胞になり、京大で美学を学びながら、初めて書いた戯曲が認められ上演される。不思議な出会いに恵まれ、アメリカへ留学してオフブロードウエーで自分の戯曲公演にこぎつけながら、「成功の泥沼」を嫌って帰国。戯曲を書き続け、評論を書きはじめ、大学で教えているうちに、30代半ばで時の総理大臣に直接助言をするようになる。これが成功物語でなくて何であろう。
山崎さんはしかし、こうした信じられないような体験をただ語るだけではない。自らが置かれた状況、時代を、正確かつ冷静な口調で分析してみせる。新しい知の世代が活躍の機会を与えられた、戦後日本という貧しくて危ういけれど可能性に満ちた場を描く。知識人と政治の関係、時代の空気という現象、演劇の本質、社交という営みについて語り、思索の翼をさらに拡げ飛翔する山崎さんを目の当たりにして、我々は文字通り圧倒された。そうした分析を記録したこの本が、おもしろくないはずがない。
ただ不思議なのは、こうした体験とその背景を、時に身を乗り出して語るなかで、自分は一つの点景に過ぎないと山崎さんがくりかえし強調することである。共産党員として活動し、大学で学問に取り組み、左翼全盛の演劇界に身を投じ、あるいは首相に助言をし、サントリー文化財団の仕組を作り上げても、覚めている。いや覚めているように見える。
もちろん1960年代政治の世界に深く関与したのは、日本という国家がまだ非常に小さく見えて、自分が守り支える必要があると考えた。サントリー文化財団を作ったのは、専門化し蛸壷化した学問分野にとらわれず、総合的に深く考える真の知識人を育てる必要があった。そうした至極もっともな説明はあるのだけれど、自分が関与したのは偶々そこに居合わせただけであるかのような姿勢に徹する。それはなぜなのか。
山崎さんはこうした問いを予想していて、政治と長く関わったのは、むしろ「ある種の諦念があったから」だと述べる。それを森鷗外に見られる「自分には自我がない」という自覚に結びつけ、「私自身も(鷗外と同様)自我を空白としてしか把握できない」と言い切る。
しかし、そうした自我のない山崎さんが、時代が何を必要としているかを他の人に先がけてたびたび見抜き、その実現のために新しい仕組をつくり、適任者を見つけて配し、徐々に軌道へ乗せることに、異様なほど熱心である。この劇作家は芝居を書いていないときも、常に筋書きを考え、配役を考えている。山崎さんはこれを「積極的無常観」という巧みな言葉で説明するが、本当だろうか。むしろここにこそ、山崎正和の自我が存在するのではないか。「いかにして人は自身を知るか。観察ではなく、行いによってである」というゲーテの言葉を、他ならぬ本人が引いているではないか。
70年代にニューヨークで大ヒットし、今でもしばしば上演される『コーラスライン』というミュージカルがある。声だけで出演するザックという演出家が、舞台のうえに売れない俳優たちを立たせ、オーディションを行うという設定である。一体君はどうして舞台に立ちたいのか、君は誰なのかというザックの問に、抵抗しつつも一人一人が自分について赤裸裸に語りはじめる。
10年前の山崎オーラルでは、いつもは演出家のさらに背後にいて役者を見定めている山崎さん自身が、初めて舞台の上に立たされ、いったいあなたはだれなのかと、4人のザックから問われ続けた。問われなくても考えさせられた。時には居心地が悪かっただろう。そのせいかどうか、オーラルの成果は10年間封印された。
けれども時が経つにつれ、山崎さんは自らのオーラルヒストリーもまた一つの舞台だった、改めて世の中に出せると考えたのかもしれない。そのために必要な加筆や修正を行って、出版社に原稿を渡した。そのせいか、この本は時に質問者を飛び越え、山崎正和の作品として読者に強い調子で直接語りかける。舞台を設け役者を配することにおいて山崎さんに負けず劣らず巧みな御厨さんが、こうなるのを予想してこのオーラルヒストリーを始めたのだとしたら、それもまた大したものだ。
役者は上手から下手から現れ、必死に演じ続けるが、上演時間は限られている。一体だれが舞台を回しているのか、舞台はどのように回っているのか。舞台は回せるものなのか。山崎さんだけでなく我々一人一人に、言葉のより根源的な意味で題名が問いかけるこの本は、やはり実におもしろい。