橋本 博文(はしもと ひろふみ)
大阪公立大学大学院文学研究科准教授
2013年度「若手研究者のためのチャレンジ研究助成」被採択者
橋本 博文(はしもと ひろふみ)
大阪公立大学大学院文学研究科准教授
2013年度「若手研究者のためのチャレンジ研究助成」被採択者
外角低めのスライダー、だったと思う。高三の夏、最後の打席、フルカウント。気を強く持って思い切りバットを振ればよかった。でも、振れなかった。空振り三振じゃなくて、見逃し三振。結果よりも弱気だった自分が情けなかった。その光景は、今でも夢にみる。
強気、やる気、気合。高校球児だった筆者のみならず、「気」のつく言葉は、多くの人たちにとって日常的に口にするものだろうし、「病は気から」という諺にあるように、誰であれ、気の持ちようで何とかなるはず(何とかなったはず)だと考えることがあるだろう。
けれども、気の持ちようとは何だろう。そう問われてみると、その曖昧模糊とした、目には見えぬ気の存在すら信じられなくなってくる。「病は気から」と言うけれど、気の持ちようで、本当に病の帰結までも変わるのだろうか?
2024年1月に開催された堂島サロンでの磯野真穂氏によるご報告は、気の力なるものを実在させる人間の心と社会の関係についてあらためて認識させるものであった。以下では、オブザーバーとして参加した筆者なりに磯野氏のご報告内容の要旨とサロンでの質疑応答の要点をまとめ、感想も添えることにしたい。
コロナ禍の3年間、使われ続けた「気の緩み」
磯野氏はまず、ご専門である医療人類学について概説され、医療人類学は「意味」を扱う点を強調された。磯野氏はこれまで摂食障害についてのご研究に尽力されており、摂食障害を理解する上で医学的観点にもとづく「疾病」としての理解のみでは事足りず、人類学的観点からの「病」としての理解が必須であるという点をわかりやすく例示された。
ここでの「病」とは、患者がどのような意味合いで病気を経験しているのかという「意味を帯びた経験」を含んでいる。この「病」の部分をちゃんと見つつ、「疾病」と「病」とを包括的に捉えた上で、病気を理解しようとするのが人類学的アプローチの一例というわけである。
こうしたアプローチの下、磯野氏は着眼点鋭く、日本社会において新型コロナウイルス感染症という病気がどのように受け止められてきたのか、さらには、コロナ禍の3年間で「気の緩み」という言葉がいかに使用されてきたのかをありありと示していく。
何よりも興味深い事実は、新型コロナウイルス感染症拡大を懸念する一般の人たちのみならず、政府・自治体の関係者や「専門家」と称される人たちも同様に(あるいは、一般の人たち以上に)、感染者数増大の原因を人々の「気の緩み」に求めていた可能性があるということだろう。「感染拡大の根底にあるのは気の緩み」といった具合に、である。
もちろん、ここでいう気の緩みは、手洗いやマスクの着用をおろそかにすることなどの具体的な行動を意味しているのだという見解も可能だろう。しかし磯野氏は、同じく感染症の一つであるインフルエンザ大流行の原因を気の緩みに求めていた事実は、データ上では見当たらないと主張する。感染症と「気の緩み」という言葉との密接な関連は、コロナ禍に特有だったとも解釈できるのである。
日本社会をまとめあげるための「気の緩み」
磯野氏は、「気の緩み」という言葉を使うこと自体がナンセンスであると主張したいわけではなく、人類学的観点から「気の緩み」という言葉がどうしてある種の説得力を持ったのか、その理由を探ろうとしているのである。それでは、磯野氏が探り当てたその理由とは何か。
磯野氏は、人類学の古典の一つであるメアリ・ダグラスの『汚穢と禁忌』を挙げ、ダグラスの言う制度概念を援用しつつ、「気の緩み」という言葉は、社会をまとめあげるための一種の「必要悪」ではなかったかと解釈する。気の制度的側面に着目すれば、コロナ禍において世をにぎわせた「自粛警察」も、県外ナンバーへの誹謗中傷も、新型コロナに感染した人が切実に謝罪をするといった社会現象を生み出す人々の奇妙な言動も、ある程度は理解できるだろう。
コロナ禍にあえぐ日本社会に身を置く人たちは、互いに互いの「気の緩み」をチェックし合い、ときには罰し合う。そうした相互に影響を与え合う人々の言動があったからこそ、政府・自治体の関係者や専門家が問題視するような「気の緩み」は実態化し、またある種の真実となったというわけである。幸か不幸か、そのおかげで日本社会においては罰金を科されることも警官から棒でたたかれることもないままに、「気の緩み」という言葉がある種の説得力を持つような社会状況がつくられるかたちでコロナ禍を乗り越えることができた。今になってコロナ禍を振り返れば、そうした物語の構築も可能だろう。
もちろん、言うまでもなく、政府・自治体の関係者、さらには社会政策に関わる人たちがそもそもやるべきことは、たとえ人々の気が緩んでいても問題がないような社会の構築である。当該社会に身を置く個々人をターゲットとし、「気の緩み」という言葉を用いるかたちでの社会のまとめあげは、決して褒められるやり方ではない。
心の動きを自然のリズムに合わせるための雨乞い
これまで記してきた内容は、磯野氏自身による朝日新聞の連載記事をもとにしたご報告内容の(筆者なりの)要点だが、ご報告の終盤には、連載記事には含められなかった部分についてもお話しいただいた。その議論における磯野氏の仮説を端的にまとめると、「緊急事態宣言は雨乞い」ではなかったか、というものである。
メアリ・ダグラスの『汚穢と禁忌』には、ディンカ(アフリカの民族)による雨乞いの儀式が、雨期が近づいたときに行われるとの記述がある。もうすぐ雨が降ることを知った上で、雨乞いをするというわけだ。磯野氏は、こうした儀式のやり方を、リーンハートの考えも採用しつつ、「人間の精神のリズムを自然のリズムに合わせていく」やり方として解釈する。コントロールが不可能な自然のリズムに、自分の心の動きを合わせるための雨乞い儀式、というわけだ。
雨乞い儀式に対するこうした人類学的な解釈にもとづけば、コロナ禍における緊急事態宣言は、「雨乞い」と似たところがある。緊急事態宣言それ自体に実質的な効果があったかどうかはよく分からない。しかし、その宣言によって「私たちは感染をコントロールすることができた」という、一見すると説得力を有する物語を私たちは構築し、共有することができたのではないか。
魔法のような言葉を揶揄することなく、冷静に捉えた上で過去を踏まえる必要性
ご報告内容が興味深いものであったためか、その後の質疑応答も活発に行われた。全てをまとめることはかなわないが、筆者なりにいくつか論点をピックアップしてみたい。
まず、「気の緩み」はたしかに便利で、一種の魔法のような言葉であるという点。過去を振り返って使うときにはとても便利で、うまくいったら「気を引き締めたから」、ダメだったら「気が緩んだから」と言うことができる。こうした便利な言葉を社会政策に関わる人たちや専門家と称される人たちが使っていたという事実、そして、それに違和感を覚えなかったという事実はやはり問題視されるべきである。さらに「気の緩み」という言葉の使用が、魔法のようにうまく行き過ぎた側面も無視できない。これは、真面目さを含む日本人の特性も関連しているかもしれないが、いずれにせよ「気の緩み」という言葉による言動の規制が行き過ぎてしまい、今となってはもうその魔法を説く呪文がわからない、という状態になってはいないか、という懸念も共有された。
次に、「気の緩み」という言葉が説得力を持つに至った一つの理由として、未来が不確かで予測できない状況だった、というのが大きかったのではないか、という点。高度に社会的な生物である私たちは、未来が予測できないと、社会や他者からの制御による安定を求めようとする。インフルエンザの大流行時に「気の緩み」という言葉が使われなかったのは、ある程度の未来予測が可能であったためではないか。もちろん、そうした言葉が説得力を持ったかどうかとは別に過去を踏まえる必要はある。コロナ禍におけるトップダウンでの意思決定を、日本社会における子どもたちに押し付けた事実は、やはり振り返りが必要であろう。
最後に、歴史は過去のことだけでなく、私たちが生きている今もいつか歴史になるという点。ここで話題になったのは、妖怪「アマビエ」の存在である。コロナ禍においてアマビエの存在自体が何らかの効力を持つと信じていた人はおそらく皆無だったはずである。しかし、アマビエを祭り上げ、イラスト化し、皆で共有することで「何かしている」気になっていた(そういえば、厚生労働省のポスターにまで出現していた!)。これだけの証拠があれば、遠い未来、「2020年、日本人は妖怪アマビエを信仰していた」などといった「過去」になっても何ら不思議はない。この点は、ご報告内容ともオーバーラップするところがあり、興味深い点でもある。
個人の心のあり方を強調する説明に違和感を覚えるために
「気の緩み」という言葉に焦点を合わせつつ、コロナ禍における人々の心と社会を鋭く整理する磯野氏の分析は、非常に説得力のあるものであった。また、筆者自身、まさに磯野氏が分析対象としているような「気の緩み」に原因を求めた言説を無自覚に受け入れてきたことにも気づかされた。
私たちは「ポスト真実の時代」に生きている、と形容されることがよくある。客観的な事実よりも「事実“っぽさ”」の方が優先され、その意味での“それっぽさ”を事実に纏わせるような言説が危惧されるようになって久しい。そのため、ポスト真実の時代だからこそ、理性の働きを信じて、何が真実なのかを熟考し、事実をきちんと見極めようとすることの重要性もますます声高に叫ばれるようになってきた。
筆者自身も理性や熟慮の働きを信じているし、また、信じたいと強く思っている。何が真実かを見極めようとすることの重要性にも異存ない。しかし、磯野氏のご報告内容や、「緊急事態宣言は雨乞い」説に触れる中で、わかりやすい「事実“っぽさ”」を求めたり、後づけ的に事実を自分の都合で捻じ曲げようとしたりする人間の心の働きを頭ごなしに否定するのもおそらく間違っていると感じた。
私たちの心の働きは、「気の緩み」という言葉に説得力を持たせるような物語を構築することに長けている。そうした心の働きがあるからこそ、私たちは「物語」や「虚構」をつくりだしたり共有できたりもする。そして、物語や虚構を共有できるからこそ、「気」の力すらも実在し得るようになるのだ。その意味で、私たち人間は、ずっと「ポスト真実の時代」に生きてきたという理解も可能である。そうだとすると、そうした心の働きを(否定するのではなく)肯定しつつ、しかし同時に、私たちの心の働きが構築しうる「物語」や「虚構」を冷静に見つめることがこれからますます必要なスキルとなるのだろう。人類学的な分析は、そのための重要な示唆を与えるはずだと思う。
橋本 博文(はしもと ひろふみ)
大阪公立大学大学院文学研究科准教授
2013年度「若手研究者のためのチャレンジ研究助成」被採択者