清水 さやか(しみず さやか)
共立女子大学非常勤講師
2016年度「若手研究者のためのチャレンジ研究助成」被採択者
清水 さやか(しみず さやか)
共立女子大学非常勤講師
2016年度「若手研究者のためのチャレンジ研究助成」被採択者
美とは何か、と問われて、答えに窮さない者がはたしているだろうか。
いや、個人的に美しいと思う物、人、形、色、音、行為などを挙げることはもちろん簡単である。特定の分野において美しいとされているものの条件を列挙することも可能だ。しかし、美そのものは何かと突き詰めて考えてゆくと、どうしてもどこかの段階で « Je ne sais quoi »(いわく言い難いもの)の壁にぶつかってしまう。何かを美しいと感じるのは個人の感覚なのか、それとも本能なのか、社会的な刷り込みなのか、理性や倫理といかに兼ね合いがつくものなのか、何を・なぜ美しいと感じるのか……。頭に疑問符がいくつも浮かび、美というものがだんだん厄介で怪しげなものに思えてくる。ましてや20世紀前半に美術・文学を中心とする分野において「美」という価値観が根本的に覆されてしまったことを考え合わせると、美の価値を今なお真正面から信じることなど安易にはできないような気がしてくるのである。
しかし、そのように尻込みをする者を諫めるかのように、2019年11月、「『美』の探求は、人間の知にとってどのような位置を占めるのか」というきわめてクラシックな――しかしそれだけに挑戦的ともいえる――議題のサロンが大阪で開催された。報告者は美学者の瀧一郎氏。堂島サロンのホストの一人、猪木武徳氏からの度重なるラブコールによって実現した講演である。経済学、物理学、音楽など、多様な分野を専門とする十名ほどのゲスト・ホストたちの前で、瀧氏はじつに穏やかに、とはいえ隠しえない情熱をもって同報告を行ったのだが、その端正な報告の根底にあったのは、科学技術が目覚ましく発達し、AIのシンギュラリティーが迫る今こそ、美の探求が持つ意義を再考する必要があるのではないか、というひとりの文系学者の切迫した危機意識である。
瀧氏の報告はまず、西洋哲学において美の探求と発見がどのようになされてきたかを、ヘレニズム(古代ギリシャ)とヘブライズム(ユダヤ=キリスト教)の思想に遡って明らかにすることから始まった。
ヘレニズムとヘブライズムは、言うまでもなく西洋思想の二大源流である。両者は美を善と並ぶ最高の価値としたことで共通しているが、じつのところ、その美の探求は異なる方向性を持っている。ヘレニズムにおける美の探求は、ひと言で言うならば〈多なるもの〉から〈一なるもの〉への帰還を目指すものだ。たとえばプラトン哲学の優れた後継者であるプロティノスは、一者から知性が発出し、知性から魂、魂から物体が発出するという構図を前提としたうえで、美の探求はこの工程を逆方向に辿ること、つまり物体から最終的には一者へと戻ることであると定義する。彼によれば、美を得るためには、物体を捨てて、〈一なるもの〉に帰還しなければならない。プラトン哲学もアリストテレス哲学も、この〈一なるもの〉への帰還という原理を有するものであった。
それに対してヘブライズムで目指されたのは、その逆方向、つまり〈一なるもの〉から〈多なるもの〉への発出である。ユダヤ=キリスト教においては、世界は神の意図に沿って呼び出されたものだ。それゆえ神はあらゆる被造物を喜び、その多様性を祝福する。「神は善そのものであり、美そのものである」としたトマス・アクィナスは、神をすべての被造的な美の原因とみなした。被造物はみな、有であるかぎり美しい。古代ギリシャにおける、有限なものを放棄せよという教えとは逆に、地上の多種多様な顕れが美なるものとして肯定されるのである。
〈多〉から〈一〉へと進むヘレニズムと、〈一〉から〈多〉へと進むヘブライズム。西洋哲学におけるこれら二つの伝統は、逆方向を向いたまま交わることがなかったのだろうか。そのような疑問に答えるべく、瀧氏が両者を統合するものとして光を当ててみせるのが、20世紀哲学の嚆矢、アンリ・ベルクソンである。
瀧氏が着目するのはベルクソンの「直観」の概念だ。ベルクソンは直観というものを、〈多〉から〈一〉への帰還と、〈一〉から〈多〉への発出という双方向の運動が同時的に生じるものと考えた。つまり私たちは直観する瞬間、絶対的なもの――ヘレニズム的な言い方をすれば「ふるさと」だろうか――へ還るのと同時に、多様なものを産出する(創造する)方向へも向かうのである。その二つはどちらが先でどちらが後ということはない。ヘレニズムとヘブライズムがそれぞれ美の探求を通して目指した方向は、ベルクソンの考える直観においては同時に成立しているのである。
この直観においては、認識は創造と結びついている。言い換えればベルクソンが考える創造とは、「帰還が即ち発出であるような、一方向即双方向であるような因果性に基づく産出」(瀧氏)のことを指すのだ。このベルクソンの思想に、人間を「工作人(ホモ=ファベル)」ならぬ「創造人」として再定義する見方をみとめる瀧氏は、人間をその他の存在から区別しうるのは、このような「創造」を可能にする直観の有無ではないかと問いかける。本能は動物にもある。知性についてはAIが人間を凌駕する。しかし、動物やAIにはおそらく美は直観できない。本能や知性とともに直観が備わっていること、その直観によって創造ができること。それこそが、現段階では人間の特質といえるのではないだろうか――。
ベルクソニズムに依拠しつつこのように人間を新たに定義してみせる瀧氏は、美の探求は理論的にだけでなく、同時に実践的に、あるいは制作の問題として捉えられるべき、という提言で報告を締めくくる。結論部分における、恩師と仰ぐ今道友信氏の「世界の美化」という概念の引用は(本人も認めるように)ややラディカルに聴こえたものの、その裏には美をめぐる学問的探求を机上の空論で終わらせず、どうにか今の社会へ開かれたものにしたいという切迫した思いがあることが感じられた。実学ではない文系学問がこのAI時代に何をなすことができるのか、あるいは何をすべきなのか、瀧氏の熱い報告を聴いた今改めて考えさせられる。
プラトン、アリストテレス、プロティノス、アウグスティヌス、トマス・アクィナス――古典を豊かに旅しながら解説をしてゆく瀧氏の報告を聴いていると、かつて人間にとって美がかくも大きな価値を持っていたのかということに驚かされる。プラトンが言った「よく生きる」の「よく」には、「正しく」という意味も「美しく」という意味もある。「創世記」に頻出する「よい」という表現は、もともと倫理的な質ではなく美学的な質と関係していた。定義そのもののなかに「いわく言い難いもの」を持つのが美だと瀧氏は言うが、その得体の知れないものを人類は古来追求し続けてきたのだ。今回ひとりの美学者の導きで、美をめぐる知の豊かな水脈に指先でそっと触れることできたのは大きな喜びである。
しかし、美の探求の難しさに唸らされる場面もあった。質疑応答では様々な意見が寄せられたが、そのなかで筆者がとりわけ関心を惹かれたのは、美の持つ危さに正面から切り込んだとある質問だった。美の実践としての「美化」という概念には、粗雑物やごみを排除する清掃(Reinigung)のイメージがある。このドイツ語の単語が同時に粛清という意味を持つことは、美の実践がじつのところ恐るべき事態に帰結しかねないことを物語っているのではないか――。そのような厳しい指摘が参加者の一人から出たのである。
今回の報告は美の肯定的側面に注目するものであったが、たしかに、西洋的な美の土台をなしてきた秩序、調和、統合、合理性といった理念は、ともすれば強制的な同一化や暴力的な排除・殺戮と結びついてしまう。たとえキリスト教の出現によって美が多様性を祝福する概念に変化したという歴史があるにしても、美が排除や粛清のロジックと結びつきやすいことは否定できない。私たちは美をいかに実践できるかという問題を考えるともに、美の危険性、すなわち、政治的イデオロギーに利用されやすいことや暴力と結びつきやすいことを絶えず認識しなくてはならないだろう。
質疑応答も終盤に差し掛かった頃、均一性や対称性によって規定される普遍的な美は、じつのところ人間だけでなく動物にも認識可能である、という情報が認知科学の専門家からもたらされた。そのうえで述べられたのは、人間の美の感覚は「恐ろしい」という感情と関係しているのではないかという意見である。たしかに、自らの理解の枠組みの外にあるものにただ恐怖するだけでなく、同時に美を感じることもできるのが人間の特質なのかもしれない。同専門家は最後に、「もし死の恐怖がなかったら、美の感覚はあり得たのか」という鋭い質問を投げかけたが、その問いには死すべき者としての人間の脆弱さと同時に、人間の可能性を物語る何かがあるように思う。
美という、いわく言い難いもの。その感覚はどうやら、人間性と深く関わっているらしい。「この無限の空間の永遠の沈黙は私を恐れさせる」(『パンセ』)と言ったのはパスカルである。未知なるものと対峙するのは厄介だし危険だし、とても恐ろしい。しかし、それとの対峙から逃れられないのが人間なのだろう。そのように思いを馳せてみる秋の夕べだった。
清水 さやか(しみず さやか)
共立女子大学非常勤講師
2016年度「若手研究者のためのチャレンジ研究助成」被採択者