Webと美術の新時代

堀江 秀史(ほりえ ひでふみ)

東京大学大学院総合文化研究科・教養学部付属EALAI 特任助教
2016年度サントリー文化財団鳥井フェロー

自己肯定からの脱却――大学改革と人文社会科学のゆくえ――

堀江 秀史
Hidefumi Horie

自己肯定からの脱却――大学改革と人文社会科学のゆくえ――

堀江 秀史 Hidefumi Horie

 大学院生やポスドクの者(博士号取得後に常勤のポストを得られない人々)にとって、就職の問題は常に頭を重くする。とりわけ、何かよく目に見える資格や免許を得られるわけではない人文社会科学を専攻する者にとっては、その重さは著しい。好きなことを深められて幸せかもしれない、だけどそれが何の役に立つの? という問いは聞かれ飽きたし、そうした問いに対して、意識にも上らないような現行の「当たり前」(イデオロギー)を説得的に問い直せるのは人文社会科学系の学問である、といったようなことを大真面目に言うのももう飽きた。加えて、国が人文学軽視の立場を強めているという、メディアの喧伝する噂だ。このまま研究をつづけたとして、専任のポストを得られるのか。仮に万一得られたとしても、恩師たちの研究以外での忙しさを傍らで仰ぐにつけ、「好きなことを深める」時間が確保出来るのか。不安に思わざるを得ない。とはいえ今さら進路を変えるわけにもいかない。かくしてこの問題は棚上げされ、目の前の課題や仕事に向かう。だが現実は冷厳だ。いよいよ良い年齢でもある。あとがない。
 ――そうした出口の見えない悩みを抱える人文学の学徒の一である私にとって、この度の「大学改革と人文社会科学のゆくえ」というテーマは極めて興味深いものであった。今回の堂島サロンでは、大阪大学の堂目卓生教授と東京大学の宇野重規教授、そして御欠席ながらレポートを出された鈴木寛氏から(堂目教授が要所を代読)、基調となる報告があり、その後、国立大学、あるいは高等(大学、大学院)・中等(高校)の教育現場、あるいはマスメディア、産業界、研究所、研究支援団体など、様々な背景を持った先達たちによって、大学のあるべき姿を模索する熱のこもった議論が交わされた。以下に当日(2017年9月28日)の議論を報告する。

 議論の前提として、ホストの先生方からの報告をまずはまとめる。
 政府発行資料から、この「改革」に必要な要素を抽出するならば、一つにはイノベーションの創出ということがあり、また一つには、社会的要請に応えるということがある。大学は、これらを戦略的、意識的に遂げられるよう、自らの使命(ミッション)を再定義しなければならないとされる。これには、社会保障の予算が増え、また説明責任の重要性が増す中で、国が大学への補助金(運営費交付金)を毎年度削減しているという背景がある。大学は体制を維持するためには自前で予算を調達せねばならない。だから、予算増額の理由づけのための「改革」が行なわれる。政府が厳しい査定を行なっていることを世間に納得してもらうための「改革」。大学が国から得る交付金を適切に使っていることを示すための「改革」。削減の結果として必要となる競争的資金を得るために、大学が外部を説得する材料として使う「改革」。実質的な改善・向上を目指す真の意味での「改革」はほぼないのが現状だ。これで得られるのは短期的な改革プロジェクト遂行のための予算なのだから、若手研究者にはプロジェクト付きの有期ポストしか与えられず(あるいは大学の苦境の中、そのおかげで有期にせよポストを得られているとも言えるのだが、いずれにせよ)、安心して自由に研究するという環境からは遠い。また、研究盛りの中堅の研究者は経営に時間を割くことになり、研究の時間が削られる。大学のパフォーマンスを上げるための「改革」であった筈が、そのためにパフォーマンスの根幹である研究を出来なくなる、という悪循環が生じているのである。根底には、大学運営のための資金の不足がある。それを持ってこられない、あるいは持ってくる意志の乏しい人文社会科学は、先細りを強いられている。

 概ね以上の報告に対して、主に大学人の先生方から、学内的な事情や国の「大学」を一纏めにして改革を迫るやり方についての疑問が口にされた。鈴木氏のレポートには、大学は特定の立場に対して短期的な利益をもたらすことを目的としていない、としたうえで、次のように書かれていた。「そもそも、その活動は、その時々の社会の支配的な価値観や常識に照らして、理解されないことが多く、[…]今の社会で通用している価値観におもね[ら]ざるを得ない政治や企業とは本源的にその性質を異にしている」。だが、大学はその資源を社会に求めざるを得ない。従って軋轢が生じるのは必然なのだと。こうした大学と社会の性質の違いや、理系文系の質的な違い、それに伴う、両者が必要とする研究費の違い(もちろん理系が圧倒的に多い)、文系研究者は競争的資金を得る為の煩雑な書類を書いて「僅かな」お金を得るくらいなら研究に時間を割きたがるが、その論理は今の大学運営には通らないということ、そもそも理系は研究費が削られた時点で危機感を覚えるが、文系は上記の事情からポストがなくなりだして初めて危機感を覚えるのは当然であること、だから文理に一律に課される施策はおかしいということ等々、大学運営上の問題や「改革」との質的なずれが指摘された。
 こうした、国からの要請に対する現場(大学)からの意見を聞いた産業界の先生からは、「なぜ行政主導の改革を大学が容認するのか」と、大学の「主体性」が問われ、「議論がえらく内向きである。外から改革を迫られて仕方なくそれに反応する。現実として日本の大学の世界的なランクが下がっている現状を、誰が打破するかというところに目が向いていないように感じる」と続いた。これには、大学に身を置く(/置いてきた)先生方から、例えばこのほど国が募った「指定国立」を巡って、東京大学がそれに手を挙げつつも、自分たちはそれに選ばれるために何かするのではなく、東京大学自身の理念に基づいて改革をしてきたし、今後もすると述べて反論したこと(それでも結果としては採用された)や、しかしやはり、お金の問題は避けては通れないので、後ろにそれで養うべき人々を抱えた責任者には大きな反抗は示せないという現実がある、といった、生々しい攻防と苦悩が語られた。とはいえやはり、大学がいかにこの苦境を生き抜くかというサバイバルの話だけではなく、文と理とか、国立と私立とか、中等教育までと大学以降とかいった垣根を超えて、日本全体として、大学がどうなっていくべきかを考えねばならない、そしてそれを、大学自身が発信していかねばならない、といったような発言もあった。
 あるいは、大学の「必要性」も問題となった。多くは東京大学法学部出身の官僚の一人が、「自分は大学から何も教えてもらっていない」と述べたというエピソードに対して、それは一部の階層の人々(毎年東大合格者を多く輩出する進学校出身者)の感覚であって、地方やそれ以外の高校から大学へ来る者達からすると、それまでと大学以降には大きな差がある、自分はむしろ大学でこそ人生を得た(加えて、官僚がそのような特殊なケースの人々で占められているとすれば、「社会的要請」の内実も怪しい、「要請」はどの層から掬うかによって異なるはず)、という反論があった。かと思えば、地方の高校生とそこへ研修にくる大学生に接するなかで、大学も大学院も、大人になるのを遅延する装置としてしか機能していないように感じるという意見も出た。後者の意見は、そうした現状を見るにつけ、一度大人(社会人)になってから大学に入り直すという選択肢が、日本にももっと出て来るべきだという提言にもつながった。「とりあえず大学」というのではなしに、大学に行かないような知、「運動知」とか「音楽知」を、人文社会科学が掬いあげて耕すこと、つまりそうした価値観を育むような研究が育つと素敵だというマスメディア界からの先生の意見もあった。
 最後にホストの先生方から、過去の偉大な経済学者達を見ても、あるいはひと夏のインターンシップで成長する学生を見ても、社会の泥にまみれた上で、大学に戻ってその泥と汗を知へと還元する、その往還が、両者に良い影響を及ぼすことは間違いないだろうというまとめがあった。

 おおよそ以上が当日の議論である。紙幅の都合で紹介できなかった話題が多くあり、また原稿としてまとめるにあたって、もとの発言に報告者の解釈が混じらざるを得なかったことをお断りしたい。 もとより結論が出るような話ではないのだが、それでも、大学、人文社会科学、といった大きなテーマを囲んで、様々な立場から意見が交換され、それぞれがそれぞれを相対化し得た貴重な時間だったのではないか。「(大学の考え方では、)正しさは多数決では判断されない」という、議論の最中に発された言葉は心強かった。学問の自由の大切さ、実学とそれ以外の質的平等性については、この会に関わった全ての先生が当然理解されている。しかしその上で、自らの在り方という内向きの方向にも(人文社会科学のミッションの曖昧さ)、社会の中の大学という外向きの方向にも(大学の主体性と必要性)、大学は思いを致し反省しなければならない。大学が国や社会に対して、文系理系の調整や「社会的要請」の内実(あるいは偏り)について反省を求めるのと同様に。「利便性や実用性のある知を伝えるSophist(知っている者)としての責務を果たしつつ、自分は知らないという自覚のなかで、Philosopher(知ることを愛する者)として探求し、その愛し方を後世に伝えていくこと」(堂目教授)や、「やっぱり大学が、アカデミック・コミュニティが好きなんです。だから何とか守りたい。守りつつ攻めたい。本当は攻めたい。」(宇野教授)といった言葉が意味したのはそうしたことだっただろう。現状を呪うだけでは出口がないのは当然だ。冒頭に述べたような不安、そして諦めは、自分の殻に籠もることを意味する。そこから脱却する鍵が、今回の議論のなかに示されていた。

堀江 秀史(ほりえ ひでふみ)

東京大学大学院総合文化研究科・教養学部付属EALAI 特任助教
2016年度サントリー文化財団鳥井フェロー

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