サントリー文化財団トップ > 研究助成 > これまでの助成先 > テレビジョンと再編される知覚:メディア論とテクノサイエンスの交錯

研究助成

成果報告

研究助成「学問の未来を拓く」

2023年度

テレビジョンと再編される知覚:メディア論とテクノサイエンスの交錯

ダラム大学現代言語文化学部 助教授
ショーン ハンスン

 本プロジェクトの基本的な狙いは、「テレビ」の歴史が一方で放送や映像を中心とした文化史・文化社会学と、他方で技術や産業を中心とした科学技術史との二つに別れてしまいがちな状況を超えて、「テレビ離れ」が盛んに論じられている今日においてより総合的な〈テレビジョン〉史を書くことにある。「テレビ離れ」をめぐる言説は、「テレビ」を放送媒体として扱っており、放送番組と番組制作過程の分析、または家庭内において番組やCMやニュースを受容する視聴者の実践に着目して、デジタル時代においてその既存の制作や配給過程及び消費様式が崩されたことを指摘してきた。しかし、放送媒体としての「テレビ」という枠組みだけに還元されない、視聴覚的情報の長距離的な伝達と処理を可能にする技術として社会の種々雑多な側面に組み入れられた〈テレビジョン〉という観点から振り返ると、我々が「テレビ離れ」の時代を生きていると言えるかは疑わしくなる。テレビ放送の普及と並行して、実験室や医療現場において新たな現象を計算機とともに可視化する〈テレビジョン〉装置や、工場などで生産を監視し機械を操作する〈テレビジョン〉装置、あるいはドローンなどのような武器を操作する〈テレビジョン〉装置などが登場し、こうした広義の〈テレビジョン〉は現代のスクリーン社会の根底にいまだ生きているからだ。それゆえ、放送だけに還元されない総合的なテレビジョンの新しい歴史が必要となる。
 このような新しい歴史叙述の出発点として、本プロジェクトは旧NHK放送科学基礎研究所視聴科学研究室を対象として研究を進めてきた。1965年に創設された視聴科学研究室は放送の即時的なニーズに応える技術開発よりも、放送の「最終的受け手である人間の特性」――つまり視・聴覚のメカニズム――を解明することを目的とした。その思想背景には、サイバネティクスとバイオニクス(生体工学)が大きく関与していた。サイバネティクスは、情報伝達によって制御されているという点において機械と生物を一種の情報体系として同一視する立場を示した。バイオニクスは生物の独自の機構を究明し、それによって得た知識を工学的な問題の解決に応用しようとした。そして、その両方の融合から新たなテレビジョン工学が可能になるとされ、当時の主任研究員・樋渡涓二氏はのちに、これを「生体のシミュレーション」と呼んだ。樋渡氏によれば、これからのテレビジョン工学は、送受信器の伝送路などにとどまらない。それは、人間の眼から大脳までの神経系を含めた、視聴覚的情報の通信システムを対象とし、心理学的および生理学的な実験より得た知識に基づいて人間の高度な視聴覚的情報処理機能を機械に置き換えていくべきである。こういった心・生・工の「三位一体」という理念を掲げた視聴科学研究室は、生物の眼球運動制御機構・気流機構・学習機構などの電子的モデル化に取り組み、アイ・カメラ、画像認識、自動的話速変換といった技術の開発のもととなり、その最大の成果として世界初の畳み込みニューラル・ネットワークの開発に成功した。この観点から見れば、〈テレビジョン〉は、テレビ受像機が電話や計算機やファミコンなどに接続され始めた80年代前半を境に、次第にニューメディアの中に編入され、終わりを迎えたといった歴史観は問い直されることになる。むしろ、〈テレビジョン〉こそが、既に65年という段階から、人間の視聴覚を機械的に再編成することによって、現在のデジタル社会を支える情報通信技術を形成していったと言えるからだ。
 視聴科学研究室の正体に迫ろうとする本プロジェクトは2023〜2024年度の活動においては特に「アーカイブズ」という問題に焦点を当てた。研究テーマや成果に関してはもちろん公表されたものから容易に鳥瞰できるが、実験や研究の中段階における試行錯誤や具体的な実践、研究室の日常のインタラクションや雰囲気などは、そういった史料から窺いにくい。残念ながら、NHK技研は基本的に、進歩報告、実験ノート、実験装置といった内部の歴史史料すべてを機密扱いとし、外部からの調査を許していない。そのため、われわれはまず2023年12月にワークショップを開催し、NHKアーカイブズ、NHK放送文化研究所、国立科学博物館から専門職員を数人招き、大学のメディア論研究者や歴史家との対話の場を設けた。ワークショップでの議論は、資料公開をふさぐ制度的要因をいかに乗り越えるか、という問題に集中していたが、結果の一つとして、本プロジェクトの研究代表者はのちに埼玉県にあるNHKアーカイブズを見学し、渋谷にあるNHK知財センターの方々とこれからのアーカイブズ方針について検討会を行うこととなった。
 また、このワークショップによって可能となったNHK職員の方々との交流のおかげで、旧視聴科学研究室に在籍して今は技研から組織的に離れた研究者と連絡を取ることができた。「ネオコグニトロン」という世界初の畳み込み神経回路を開発した福島邦彦氏と、福島氏のもとで研究を行った伊藤崇之氏にはオーラル・ヒストリー編纂のためのインタビューを行うことが出来た。それから、研究室の創設に深く関わり、のちに基礎研の所長にもなった故・樋渡涓二氏のご息子とも連絡つき、個人蔵の史料を実見する機会に恵まれた。樋渡氏の自宅には、「アトリエ」と呼ばれていた氏の書斎がほぼそのままの形で残っており、実験に関する写真やノート、論文や著書や講演の原稿などの大量な史料のほかに、「ぐるうぷ・いまあじゅ」という絵画サークルを率いた画家でもあった樋渡氏の手による油絵が約400点保存されていた。樋渡氏のサークルにはNHK技研及び大学の研究者が多く参加していたとされ、絵画という〈古いメディア〉と、テレビから生まれた視覚情報通信技術系のニューメディアとの関係を考える上で、貴重な資料になる。
 インタビューの書き起こしと資料の紹介は2025年に、京都大学人文科学研究所が発行する『人文學報』に掲載される予定であるが、中から重要なポイントをここで四つ挙げておくことにする。

①視聴科学研究室は、生物の機構をできるだけ忠実に電子モデル化していく点において、通常のサイバネティクスと異なった「バイロジカル・サイバネティクス」を代表した組織であった。80年代半ばまでそのようなアプローチは珍しく、視聴科学研究室以外の日本における展開としては東京大学の南雲仁一氏とその弟子たる甘利俊一氏の研究室など、限られた場所でしか研究されておらず、欧米においても同様であった。「人工知能の冬」と呼ばれていた70年代から80年代半ばにNHKの研究者が積極的に大脳を直接的に真似た電子的神経回路をつくろうとしたのは、サイバネティクス史にとって極めて重要なエピソードである。視聴科学研究室は、2012年以降に突如生じたニューラル・ネットワークの世界的ブームの源流の一つとして、日本の〈テレビジョン〉をAI研究の世界史に位置付ける上で鍵となるであろう。

②視聴科学研究室の歴史は、60年代のNHKに大きな組織・制度的な転換が生じたことも示している。東京オリンピックの成功に伴い、NHKは先進国に追いつくテレビ技術の国産化を超えた、世界をリードするような「基礎研究の強化」に力を注ぎ出した。具体的に役立つ技術の開発から一歩ひいて、基礎からテレビの可能性を考え直すというNHKの転換の中で視聴科学研究室は生まれ、意識的に応用的な側面を考えずに研究する環境が成立した。1984年以降、NHKは再び具体的な応用を重視する方針転換を行うことになり、これに伴って基礎研究を重視する視聴科学研究室の研究員の大半がNHKを退職し、大学へと移った。

③こうした組織的・制度的要素に加え、個人の役割に目をむけると、故・樋渡涓二氏の役割が非常に大きかったように思われる。樋渡氏はNHK入局後、工学者として画質評価に関わっていたが、その活動の中で被験者を用いた心理学的研究に携わることとなり、この経験から「最終的受け手である人間の特性」に基づいたテレビジョン工学や生理学・心理学・工学の三位一体という研究構想を唱えることになった。この思想は1968年の『視覚とテレビジョン』(日本放送出版協会)としてまとめられ、70年代に大学に入った工学者に研究指針を示すガイドブックとなった。こうした樋渡氏のビジョンを実現するには「放送」という目的から一般図書に乖離を置くテレビジョン工学が必要であったが、樋渡氏は自ら率いた視聴科学研究室においてこれを実現しようとした。研究室運営者としての樋渡氏は所員に「NHKを忘れろ」とまで言い自由な研究を推進すると同時に、NHK上層部を説得し潤沢な研究資金と研究者の裁量を確保することで、研究環境を整備した。同時に、像と情報、人間と機械、との関係についての自らのビジョンを一般向けの著作を出版した。こうした樋渡氏の活動は自然科学的メディア論者としても理解可能であり、科学技術史だけでなく、人文系中心になりがちなメディア論史においても再評価すべき存在であると考えられる。

④「最終的受け手である人間の特性」が対象化されたとは言え、視聴科学研究室にとって、〈人間〉とは主として情報を高度に処理する生体であり、生理学・心理学的な実験の平均値によって規定された存在であった。一方で、90年代後半からNHK技研で行われた「人にやさしい放送技術」を目指す研究もまた、人間中心的なアプローチに位置付けることができる。しかし、ここでの人間とは多種多様な不自由や障害を抱えている個人であり、平均よりもむしろばらつきが念頭に置かれている。ここでは、人間の高度な情報処理機構などを真似ていくというより、人間の機構の不自由なところを補うことが目的となった。こう考えると、テレビジョン工学の歴史は〈人間〉というものの意味の歴史的変遷としても理解できるだろう。

2024年9月