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研究助成

成果報告

研究助成「学問の未来を拓く」

2023年度

作って食べて考える:イギリスにおける〈食〉と階級の相関関係に関する領域横断的研究

神戸大学大学院国際文化学研究科 教授
小笠原 博毅

 本研究は、食文化史、調理学、農業史、経済学、社会学、メディア研究などを交差する領域横断的な見地から、イギリスの〈食〉と階級の相関関係とその変容を考察した。イギリスにおける食文化や食習慣を理解するためには階級という視点が不可欠である。階級が異なれば、日常的に口にする食べ物の種類はもちろん、食事を取る場所や時間帯、各回の食事の呼び方も異なる(たとえば一日のメインとなる食事を意味するdinnerは、労働者階級にとっては「昼食」を意味することが多い)。また階級は、料理を「作る」者(職業的料理人や上流階級の屋敷で雇用されるメイド、中産階級家庭における「主婦」)と「食べる」者(レストランの客やメイドの雇用主)の区分や、食事の準備にかける費用や手間、味付けや味覚の違いとしても現れる。このように食材、嗜好、レシピ、調理法、習慣、分業制度などを細かく検討することを通して、本研究はイギリス社会の階級構造がどのように〈食〉の領域に表出されているか、また逆に、〈食〉にまつわる習慣や制度、言説などがその階級分化の維持・再生産にどのように寄与しているか、そしてグローバリゼーションや価値の多様化によって、こうした〈食〉と階級の関係自体がどのように変容せざるをえないのかを明らかにすることを試みた。
 先行研究や歴史資料などのテキストを分析することに終始せず、実際に食材や料理を「作る」こと、すなわち農園や厨房という現場に身を置き、そこでの労働のプロセス自体をも研究の俎上に載せた点に本研究の手法上の特徴がある。たとえばイングリッシュブレックファストを考察する際には、豚肉を燻しベーコンを自作するところから始め(研究期間の制約上、豚を飼育するところから始めることはできなかった)、調理に用いる野菜や果物、ハーブは圃場で栽培するところから始めた。このように手間と時間を惜しまず、可能なかぎりすべてのものを「手作り」する作業を繰り返すことを通じて、「作る」側から〈食〉の領域を見返すとともに、イギリスの〈食〉に関する従来の多くの言説にみられる「味」(とりわけ「不味さ」)のみへの視野狭窄的な関心を相対化し、そうした切り取り方の階級的含意を批判する視座が養われた。「味」のみに特化した学術研究や美食家的批評は、「作る」という労働を有償・無償を問わず他者に押し付けることができる特権的な者たちの階級的(かつジェンダー的な)立ち位置を反映している。そうではなく、〈食〉についての研究は、味のみならず、価格や入手のしやすさ、調理や食事にかけられる時間、使用できる道具や設備、日々の労働が求めるカロリーの多寡など、複合的な基準から行われなければならず、そうした基準は前述のとおり、作る人間と食べる人間の階級位置によって大きく変化する、というのが本研究のメンバー一同の見解である。
 本研究で得られた知見の一部はすでに、インターネット上で公開している(note「Bake-up Britain:舌の上の階級社会」)。また、「フィッシュ&チップス」に関するレシピと論考、記録写真については冊子(zine)の形式にまとめ、書店や飲食店、雑貨店等で配布した。最終的な研究成果は書籍の形態にまとめ、『舌の上の階級闘争――「イギリス」を料理する』(リトルモア)として本年10月に刊行予定である。また本年9月には、神戸で開催されるカルチュラル・タイフーン(カルチュラル・スタディーズ学会年次大会)において、試食会を兼ねた研究報告を行うことが決まっている。試食会を行うのは、テクストや口頭による発表のみならず、実際に作った「料理」も本研究の重要な成果であり、それら作り、食べ、考えるプロセス自体を多くの人々と共有することが、一般社会に対する何よりの成果の還元になると考えているからである。
 今後の展望としては、イギリスにおける階級との〈食〉との関係性をより深く理解するため、「イギリス」の地理的・文化的範囲を(旧)植民地を含めるところまで拡大して考察を進めていくつもりである。アフターヌーンティーの習慣がインドにおける茶葉の、ジャマイカにおける砂糖のプランテーションでの労働なしには存立しえないものであるように、イギリスの食文化は世界各地にある植民地で生産される文物、植民地から運ばれてくるモノ、人、情報によって形成・維持されてきた。こうした植民地主義的関係と、宗主国と植民地を貫くかたちで構造化された階級関係がどのように絡み合い、帝国としてのイギリスの〈食〉を支えてきたのか、そしてポスト帝国主義時代の〈食〉にどのような影響を残しているのかを検討することが今後の研究課題となる。

2024年9月