成果報告
2022年度
日本近世中期の音楽思想の研究─享保年間前後における儒学者の音楽論から─
- 東京藝術大学大学院音楽研究科 博士後期課程
- 中川 優子
儒教においては、「礼」(儀礼や礼儀・礼節など人の行為にまつわる規範)と「楽」(音楽や舞)によって人々を適切に導くことができるという考え方(礼楽思想)のもと、音楽が重視された。儒学が学問の基盤となっていった近世期(江戸時代)の日本においても、儒学者をはじめとする知識人たちが音楽に関心を寄せた。彼らは儒学の経典などの文献にもとづくのみならず、日本の雅楽をはじめとする当時の実際の音楽文化にも目を向け、ときに自身も雅楽の楽器などを演奏しながら、音楽の理論や歴史、楽器等を考究し、その意義や位置づけに関する議論を深めた。とくに近世中期の享保年間(1716~1736)頃には、新井白石(1657~1725)や荻生徂徠(1666~1728)といった大儒たちが音楽の研究を行なったが、従来は後者、すなわち琴(七弦琴・古琴)や雅楽の研究を通じて聖代の古楽(古代中国の聖人が定めた「楽」)の復興を企図した荻生徂徠の営為に注目が集まる傾向にあり(山寺美紀子氏による諸研究等を参照)、新井白石の「楽」に関する言説を扱った研究は乏しい。本研究では、従来ほとんど検討されてこなかった新井白石の雅楽研究の内容やその背景にある思想の解明に重きを置いたうえで、荻生徂徠の音楽研究との比較検討、ならびに近世前期からの展開をふまえた彼らの「楽」に関する議論の俯瞰を試み、近世中期における音楽思想の在り方を当時の文脈に即して理解することを目的とした。
本研究の最たる特色は、各研究分野間の溝に埋もれがちな儒学の礼楽の「楽」に関わる議論に、音楽の視点からアプローチした点である。そもそも音楽史学等の分野においては儒学者の言説や思想が注目されることは少なく、一方で儒学者の思想を扱う日本思想史学等の分野では主として政治思想に重きが置かれ、礼楽論の中でも音楽に焦点が当たることは稀である。本研究では雅楽を中心として、音楽の理論や歴史などに関わる具体的な論の中身を掘り下げ、さらにその成果を日本思想史学等の分野においても発信することで、諸分野の垣根を横断した音楽思想研究に挑戦した。また音楽史の研究は概して新しく生まれた音楽様式等に重きが置かれるため、近世は一般に地歌箏曲や浄瑠璃などが発達した時代、そして続く近代は西洋音楽を受容した時代と捉えられてきた。しかし思想に眼を向け、近代に展開した音楽教育構想や学校唱歌等の背景を考えると、それらは近世の知識人によって展開されていた音楽研究や音楽の意義をめぐる議論と決して無関係ではないことが見えてくる。もっとも本研究は近世の中でもごく限られた時期の音楽論に的を絞ったこともあり、直接的にこの問題に結論を出せるものではないが、音楽をめぐる近世の学問や思想の在り方に着目することで、ゆくゆくは近世から近代にかけての音楽史の理解の転換という大きな課題に挑戦するための一歩となることを目指した。
本研究で得られた主な知見と課題は次の通りである。従来新井白石は、日本に伝わった中国系統の楽舞(唐楽)のルーツが隋唐代の燕楽(祭祀用の狭義の雅楽とは異なる宴饗用の楽)であるとし、この点において日本の唐楽を聖代の古楽の遺物とみなした荻生徂徠の主張との対立が知られてきた。しかし白石は単に唐楽のルーツだけを論じたのではなく、中国や日本における「楽」の歴史を通覧し、それらが歴史的に果たしてきた本質的な機能から雅楽の意義を論じた。そして古楽はとうに失われ、中国で漢代以降に再興された雅楽も古楽とは性質を異にするものであったとみなす一方、日本の雅楽は、たとえば固有の歌舞と外来楽舞を朝廷や燕饗等で用い、神や人を調和させてきたという点において、古の礼楽に通じる機能を果たしてきたと評価したのであった。ここで歴史という観点から近世前期から中期にかけての「楽」に関する論を繙くと、主として中村惕斎(1629~1702)を先駆とする楽律学(音律、とくに古代中国に倣った正統な基準音の律を求めることを主とする学問)の影響のもと、漢代以降の雅楽再興の歴史への理解が育まれていったことが再確認された。そして楽律研究に従事した荻生徂徠は自身の考究にもとづいて、聖代の古楽は六朝まで遺存し、それが完全に失われるのは唐代であるとみなした。ここから、白石と徂徠では古楽の継承に関する歴史観の相違があることを指摘すると同時に、「楽」の歴史を機能の面から相対的に捉えた白石の思想は、当時にあって楽律とは異なる視座から「楽」の歴史に対する理解を深めたものと位置づけた。しかし大きな課題として、本研究では新井白石をはじめ、近世中期の儒学者にとっての「俗楽」、とくに猿楽(能)にたいする思想の解明には及ばなかった。今後、白石による猿楽の歴史考証の思想的位置づけや、近世中期において日本における種々の音楽文化の歴史的展開を見通した太宰春台(1680~1747)の思想との関係等を明らかにすることで、礼楽の「楽」や雅楽にたいする関心が当世の(日本の)音楽文化の歴史的理解へと結びついていく様相を示すことができると考える。
2024年5月