成果報告
2022年度
19世紀フランスの「人形(poupée)」をめぐる女性の文化の形成─モノと表象の交差点から
- 東京大学大学院総合文化研究科 博士後期課程
- 谷口 奈々恵
研究の動機、意義、目的
本研究の目的は、19世紀後半のフランスにおける女性型の人形(poupée)が、当時の社会と文化、特に中・上流階級の女性たちの生において果たしていた役割を、ジェンダーと階級、人種をめぐる規範と権力関係という観点から明らかにすることである。
19世紀のフランスにおいて人形は、社会的、文化的に大きな存在感を放っていた。モノとしての人形の生産は、パリを中心に、女性のモードとも結びつきながら専門的な産業として発達し、モノとして流行した人形は、当時の児童出版物、文学・芸術作品や広告などの大衆文化におけるモチーフとして現われていった。
しかしながら、玩具としての人形に関する学術研究は未だ蓄積が浅く、女性史や児童文学論において、少女に性別役割規範を教育する道具であると一面的に解釈される傾向が強い。本研究では、人形が有していた意義を多角的に明らかにするべく、現実におけるモノとしての人形、ならびに出版物や芸術作品における人形の表象という二つの軸に基づき、女性に対する性規範をめぐる両義性、私的領域と公的領域の媒介者としての性質、人種と階級における他者性、女性の身体性やセクシュアリティといった複数の問題系について検討を行なう。
研究成果や研究で得られた知見
これまで報告者が研究の対象として主に扱ってきたのは、フランスの「良き趣味」を体現するような、上流階級の白い肌の婦人や若い娘を模った人形であった。本助成期間には、人形と人種および階級の関係、「他者」表象のテーマに焦点を絞り、オンラインのデータベース、パリを中心とするフランスの図書館・博物館での資料収集と分析に取り組んだ。
まず、人種の問題に関しては、1848年の奴隷制廃止、植民地政策の拡大、人種理論の発展を背景として、有色の人々を表象する人形が当時のフランス社会において有していた意味、少女たちの「他者」をめぐる認識の在り方に与えた影響を考察した。19世紀初頭より徐々にフランスに持ち込まれていた植民地、アジア・アフリカ諸国の人形や、フランスで製作されていた異国の人々をモデルとする人形、さらに少女雑誌に登場するクレオール人形のモチーフの分析を通じて明らかになったのは、非白人を表象する人形が、植民地主義や人種差別的イデオロギーを伝播する装置として機能する一方で、愛情にもとづく固有の関係を「他者」と取り結び、かれらへの共感を促す媒体となり得るということである。
階級をめぐる問題に関しては、第一に、人形の生産や流通過程に焦点を当て、フランスの人形産業の状況の変遷を、商業名鑑や万国博覧会の報告書、ル・プレー学派による労働者の家族調査の資料を通じて辿った。フランスの人形産業の特色のひとつは、製作に携わった女性の割合が他の分野より比較的高く、その技巧と芸術性を国際的に評価されていたことである。特に第二帝政期(1852-1870)にはパリ右岸を中心に、精巧な作りと豪奢な衣裳を特徴とする「パリ人形」の生産が繁栄し、人形産業に従事する女性たちのネットワークが見出された。しかし第三共和政(1870-1940)以降、百貨店の台頭による消費のあり方の変化、ドイツをはじめとする他国からの安価な人形の輸入などを背景として旧来の伝統的なパリ式の人形製作が苦境に陥った結果、人形産業に携わる下請けの労働者が大資本によって搾取されていく実態が明らかになった。ほかに、新聞や雑誌記事の調査を通じて、パリの郊外や地方においてより低い階層の人々も入手できる廉価な人形の生産が行なわれていたこと、「1スーの店」といった安価な商品を扱う店でも人形が販売されていたことを確認し、同時代の新聞や児童文学の分析からは、こうした多様な種類の人形は、その本体および衣裳の素材や質の違いによって、持ち主の社会的地位や生活状況を映し出す指標として機能していたことを示した。
今後の課題、見通し
本助成期間には、人形をめぐる人種と階級の問題についての分析は第二帝政期が中心となったため、今後は第三共和政の前半期を対象として、引き続き、モノとしての人形についての調査、ならびにテクストと視覚的イメージにおける人形の表象の分析を進めていく。
また、報告者がこれまでの研究で主に扱ってきたのは女性型の人形と人間の女性の関わりであったが、ジェンダーとセクシュアリティの問題を当時のより広い文脈で捉えるために、男性と人形の関係性に焦点を当てる。特に文学作品における、モノとしての女性型人形、および人形化される人間の女性という二つの観点から、男性が人形=女性と取り結ぶ関係について分析することにより、当時の社会のジェンダー秩序、文化的想像力における人形=女性の位置を明らかにする。
女性たちを主体として形成されていった「人形文化」の内実を詳らかにすることで、19世紀フランスのジェンダー史においても未だ十分に検討されているとは言い難い、当時の社会における少女、女性たちの生の新たな一側面に光を当てることとなるだろう。
2024年5月