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研究助成

成果報告

若手研究者のためのチャレンジ研究助成

2022年度

商人共和国レバノンの誕生:戦間期中東における経済改革と脱植民地化

東京大学大学院人文社会系研究科 博士課程
田中 雅人

 本研究は第一次大戦に伴うオスマン帝国の解体ののち、国際連盟によるフランスの委任統治下(1922–1943年)で成立したレバノン共和国に着目し、そのほか多くのアジア・アフリカ諸国が社会主義化・開発独裁の道を歩むなか、中東の国際貿易・金融ハブとして自由主義的な経済体制を追求した同国の政治・経済体制の構築過程を考察した。本研究が着目した戦間期は、19世紀の植民地主義全盛の時代から現代の国際秩序への移行期であり、現在まで残る地域間の不平等や相互依存を考えるうえで鍵となる時代である。本研究では、第二次大戦後の旧植民地独立を指標とする瞬間的な点としてではなく、経済や文化、知識・大衆心理など広範な分野で宗主国と植民地が相互に作用しあう中長期的な歴史的過程として脱植民地化を捉え、なかでも、国際連盟による委任統治の正統性の根拠とされた「人民ノ福祉及発達」(国際連盟規約第22条)、すなわち経済発展・開発をめぐる宗主国と植民地間の相互関係を考察した。先行研究は、オスマン帝国末期におけるベイルートの国際貿易港としての台頭、仏委任統治下での同港の開発の加速が同港を首都とする独立後レバノンの経済体制の基盤になったことを明らかにしてきたが、宗主国の植民地政策の分析に偏重し、植民地側の宗主国への期待や失望、働きかけを過小評価してきた。そこで本研究では、①仏委任統治初期の工業化論の展開(1920–29年)、②世界恐慌後の経済政策と商人共和国の成立(1929–36年)、の2点を研究課題とし、研究に取り組んだ。これにより戦間期の国際経済秩序の再編という視点から、アジア・アフリカ地域の脱植民地化の過程のなかに、中東地域の脱植民地化とフランス委任統治期におけるレバノンの独立体制への移行を再定位し、論じることを目指した。
 ①仏委任統治初期の工業化論の展開(1920–29年):第一次大戦後、仏当局と密接な関係を有していたレバノンのマロン派・キリスト教徒を中心とする都市中間層のあいだでは、仏資本の投下・開発の活発化による戦後復興や生活水準の向上に対する期待が存在した。アルベール・ナッカーシュら一部実業家は、発展段階論に基づき、レバノン山地の水資源を活かした水力発電によるエネルギー自給とそれに基づく工業化を通じたレバノンの経済的自立を構想し、大戦直後から委任統治政府や植民地資本と協働した。しかし、1925–27年のシリア大反乱を機に委任統治維持費が増大すると、仏当局は当初の方針であった農工業生産部門の育成を転換し、手近な財源としての関税収入の増大に関心を寄せ、交通インフラを担う仏資本の特権企業に対する補助金に公的財源を投下した。その結果、特に工業化政策の受益者と目された都市郊外の中間層下層や労働者のあいだでは、植民地当局の経済政策に対する不満が高まり、仏資本のベイルート市電・電力に対する大規模抗議運動(1931年)へ発展していったことが明らかとなった。
 ②世界恐慌後の経済政策と商人共和国の成立(1929–36年):一方、シリア諸都市の商業会議所は、英仏による旧オスマン帝国領シリアの分割にかねてから反対していたものの、シリア大反乱の鎮圧以降、武力闘争の支持から外交交渉へと次第に姿勢を軟化させ、世界恐慌直前期には、ベイルートの商業会議所が中心となり、経済分野で植民地当局との「協力」を模索するようになっていた。その後の世界恐慌を背景とした両者の歩み寄りの結果、公共事業による雇用創出や中継貿易の振興、仏の対英中東戦略の一環として、総額1億フランを超える大規模都市間交通・通信網整備計画が成立し、ベイルートは「アジアの玄関口」として、仏の植民地政策のみならず、商業会議所に集った政財界エリートのなかで独立後のレバノンの国家戦略として措定されていったことが明らかとなった。しかし、これら公共インフラの投資財源の大部分はフランスによる借款や既存の関税収入から捻出されることとなっており、同時期に調印され、将来的な独立を約束した友好同盟条約(1936年)においても、仏資本の植民地時代の権益維持などが明記されるなど、植民地時代の財政基盤を継承することで、独立後レバノンにおける所得再分配に関わる税制や財政基盤の不安定性をめぐる問題などの面で禍根を残したことが示唆された。
 今後の展開としては、19世紀後半のグローバル化と地域社会の変容のなかで台頭した都市中間層とその経済開発をめぐるイデオロギーの関係に着目することで、オスマン帝国末期から20世紀前半のフランス委任統治期にかけての時期を横断的に分析することを目標としている。とりわけ、19世紀末からの金融・移民を通じた中間層の多様化、自由主義・社会主義的な政治経済思想のせめぎ合いのなかで、1930年代の世界恐慌が与えた影響を考察し、同時期のレバノンにおける排外主義的な民兵組織・大衆政党の台頭を国家社会主義のグローバルな台頭のなかで再考することを目標としている。

2024年5月
現職:ハイデルベルク大学文化越境研究所 博士課程研究員