成果報告
2022年度
西洋音楽の加速と音符の遅延化:16~17世紀における記譜法と演奏テンポの変遷
- バーゼル・スコラ・カントルム/フライブルク音楽大学 博士課程
- 菅沼 起一
音楽を記録し伝えるメディアである西洋の楽譜は、音の高さを各行内の高低で、そして音の持続(長さ)を音符と呼ばれる様々な記号で示すことを原則とし他の地域・民族には見られない独自の発展を遂げた。特に、音の持続を音符の形で区別するというアイデアは13世紀に登場したが、そこから楽譜の近代化、すなわち現行のシステムへと移行する18世紀に至るまで、音符は一貫して常に「より小さなレベル」へと推移していった。例えば、現代では「全音符」と呼ばれ「大きな」音符とされる白抜きの音符は、15世紀後半にはじめて「全音符」という名前を与えられるが、13世紀に遡るとラテン語で「短い音符のさらに一部分」という意味を持つセミブレヴィスと呼称されていた。13~18世紀の様々な音楽を演奏し、当時の楽譜を見る中でこうした楽譜の変化に興味を持つようになったのが、本研究の動機である。
本研究は、16~17世紀に隆盛を誇った旋律を細かな音価に分割する装飾演奏法「ディミニューション」により、1600年頃に作曲・記譜領域に導入された当時の最小音価である32分音符の普及過程を調査し、同時代のルネサンスからバロックへの様式転換との関連性を考察するものである。調査対象は、楽譜の印刷出版が始まる1500年代からペストで出版点数が大幅に落ち込む1630年代までのイタリア半島での出版曲集で、16世紀に登場した新しい最小音符である32分音符の出現と普及過程を明らかにした上で、記譜と音楽上の特徴を検証した。
研究の結果、32分音符の普及過程には、より大きな音符に付随する2音程度の小さなユニットとして用いられた最初期の段階から、次第に長大かつ独立的な用法へと発展し、より音楽の骨格部分へと組み込まれる流れがあり、それらは三つの段階に分類可能であった。また、出版社側で新しい音符のための活字の準備が間に合わず、手書きで32分音符の形を補完する、ということも1590年代から1700年代に至るまで一貫して行われていたことも判明した。しかし、こうした統一的な用法が未確立であることを逆手にとり、演奏上の細かなニュアンスを示唆するような豊かな使用例が見られたことも重要である。32分音符が音楽の骨格部分へと組み込まれる過程で、より大きな音符は相対的に遅延化していった、ということも明らかとなった。対位法や和声と呼ばれる音楽の骨格に相当するより大きな音の連なりが、32分音符に引っ張られる形でより小さな音符で書かれるようになったのである。当時の音楽理論書からは、1600年前後に起きた32分音符導入による音符の遅延化が、現代の4分の4拍子を中心とするテンポ体系の確立への直接的な要因となったことも併せて明らかになっており、同時代のルネサンス音楽からバロック音楽への様式の転換、ひいては楽譜の近代化にとっての重要なステージであったと言える。
併せて行われた、同時代の音楽理論書における音符に関する記述の研究からは、15世紀から17世紀にかけての最小音符に関する緩やかな理論的転換があったことを指摘した。15世紀には、未だ伝統的なスコラ哲学的な考えが根強く、アリストテレスの無限分割に関する理論を引用し、最小音符のさらなる分割を否定する意見が見られる一方で、17世紀には、マラン・メルセンヌのように、振り子時計を用い人間が演奏できる最速のスピードを計測しようとする理論家が登場する。ここでは、音楽理論の中世的世界観からの脱却と近代的な科学観への転換が見られる。この緩やかなパラダイム・シフトは、音楽理論史では倍音などの音組織論・音律論や協和音・不協和音の理論などの領域で有名であるが、本研究は、ここに音符の最小単位という新しいトピックを加えた。
本研究は、ある時代に演奏されていた最も小さな=速い音符に焦点を当てる、というユニークな切り口で音楽史・音楽理論史の一段階を切り取るものである。本研究によって、1600年前後の音楽様式の転換に記譜法(楽譜のシステム)が果たした役割を強調することができただけではなく、楽譜の近代化へのプロセスを明るみに出せたことが意義深いと考える。また、当時の32分音符を含むディミニューションの分析からは、全音符から32分音符、ひいては「次の」最小単位である64分音符まで幅広い種類を含む1600年前後の音楽の演奏テンポの解釈に一石を投じ、当時の楽譜の解釈と、その校訂メソッドの提案を行い、現代における演奏実践に資することが出来た。現在は、15世紀に導入された8分音符や16分音符の導入過程と、先行研究で「近代化の嚆矢」と称される15世紀の記譜法理論とのかかわりについて研究するなど、対象とする時代を広げている。将来的には、13世紀から18世紀に至る「最も小さな音符の歴史」をまとめた単著を出版したいと考えている。
2024年5月
現職:日本学術振興会特別研究員PD(受入機関:京都大学大学院人間・環境学研究科)