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研究助成

成果報告

若手研究者のためのチャレンジ研究助成

2022年度

奴隷の人格をめぐる人類学的研究:東スンバの貴族と奴隷の関係を事例に

立命館大学大学院先端総合学術研究科 一貫制博士課程
酒向 渓一郎

研究の意義・目的
 東スンバ社会をテーマにした民族誌において従来から指摘されてきた点として、この社会が階層制であること、そして「奴隷」と呼ばれる身分が存在することがあげられる。この社会の身分は大きく「貴族」(maramba)、「平民」(kabihu)、そして「奴隷」(ata)の3つに分類することができ、特に東スンバにおいて貴族が治める慣習集落では、現在に至るまで貴族と奴隷の関係は維持され続けている。また、この地域を対象とした従来の研究において、奴隷は貴族が有する財の1つと数えられ、貴族の慣習儀礼における交換財、またかつては貴族の埋葬儀礼における供犠の対象として描かれることが多い。他方で、貴族は経済的に自立の難しい奴隷の庇護者であるだけでなく、なかには特定の奴隷と人格的な関係を築く者もいる。こうした両者の関係からも、奴隷は一概に非人格的な財として論じられない両義的な側面が見受けられる。そこで本研究は、東スンバの社会階層、そのなかでも貴族と奴隷の関係に光を当て、現代に生きる奴隷と呼ばれる人々の両義的な生、そして彼らを使役する貴族たちが自らに課すモラルを人類学の視座から捉えること目的とする。
 人類学者のデヴィッド・グレーバーは、『負債論』(2016年、以文社)のなかで奴隷制は過去の遺物ではなく、あらゆる時代の人間を数量的に扱う社会において存在すると論じた。グレーバーが定義する奴隷とは、自身の置かれた社会的な文脈を無視され、数値化され、貨幣と交換可能な存在として扱われる人々のことである。このように人間を数量的・非人格的に扱う経済システムを、彼は「商業経済」と呼ぶ。これに対して彼が「人間経済」と呼ぶ経済システムは、人間関係の形成・維持、あるいは再組織化に関心を置く経済である。この経済において人間の人格は固有であり、いかなる物や他者とも代替不可能と見なされる。ここで改めて東スンバの社会階層に目を向けると、貴族による奴隷の両義的な扱いは、上述した2つの経済システムの論理のあいだで揺れ動いていると考えられる。
 本研究は、グレーバーが言う商業経済と繋がるような、人間を業績や生産性、報酬額で評価・測定することが当たり前となった現代において、改めて人間の価値を数値や貨幣で把握するとはいかなることか、そして人間を固有の存在として見なすとはいかなることかを明らかにし、それらを通じて人間が唯一無二の存在として扱われる条件とはなにかを問い直す点に意義がある。

事例の紹介
 貴族が治める慣習集落でフィールド調査を行い、貴族と奴隷の関係性ついて観察した。

1)非人格的な財としての奴隷
 たしかに貴族の婚姻儀礼において、奴隷は交換される財の1つであった。たとえば女性の奴隷は、婚姻儀礼の際には花嫁とともに花婿の家に移り住む。こうした女性奴隷は、ata ngandiと呼ばれ、将来的には花婿が有する男性奴隷と結婚することがある。両者の結婚によって生まれた奴隷の子どもは、ゆくゆくは彼らの主人の子どもに仕えることになる。このような慣習に従うことで、貴族と奴隷の関係は維持され続けることになる。日々の生活のなかで奴隷は、貴族に代わりさまざまな仕事を担当する。それは、炊事、洗濯、家の掃除、さらには来客の際のお茶汲みなどあらゆる役割を担う。しかしこうした仕事に対して貴族が奴隷に金銭を支払うことは無い。以上から、奴隷には非人格的に扱われる財としての特徴があることが示唆された。

2)奴隷と貴族の固有な関係
 他方で、貴族は特定の奴隷と生涯に渡り固有の関係を築いていることも明らかになった。たとえば貴族は、自身の名とは別に彼らに仕える奴隷たちの名で呼ばれることがある。これはNgara hungaと呼ばれ貴族と特定の奴隷の結びつきを示す。たとえば、Katauhiと呼ばれる奴隷がいた場合、彼の主人はUmbu nai Katauhiと呼ばれる。これは「Katauhiの主人」と訳することができる。ときにKatauhiは、慣習的な行事に出席できない主人の代理として出席する。このとき人々はKatauhiをまるで主人であるかのようにもてなすことが求められる。しかし、行事から帰ればKatauhiは元の奴隷の戻り、彼の扱いも普段のものとなる。こうした事例は、ある特定の出来事では奴隷の人格が拡大し、主人と同一視されることがあることを示唆している。こうした関係は、奴隷を非人格的な財としてみなす議論から零れ落ちる側面である。

研究の成果・得られた知見
 以上の研究から奴隷の両義的な生が示された。すなわち、貴族たちは奴隷を「数」「労働者」として統治し、ときには「財」として交換する。だが他方で貴族たちは特定の奴隷と固有の関係を築くことで、その奴隷はある種の社会的な文脈において主人の人格を体現するかのような扱いを受ける。現代の日本でも「〇〇ちゃんのお母さん」などと親が自身の名ではなく、子の母親としての属性で呼ばれたり、政治家の秘書が政治家と同等に扱われたりする場面はあり、調査地の奴隷の非人格的扱いと人格的扱いの切り分けを深く掘り下げていくことには、現代の商業経済と人間経済の臨界点に迫ることになると考える。今後は、さらなる事例の収集に努め、先行研究との比較や人類学的な理論との接続を試みつつ、価値や道徳・倫理に関する人類学的な研究に対して新たな視座の提示をめざしたい。

2024年5月