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研究助成

成果報告

若手研究者のためのチャレンジ研究助成

2022年度

中近世環インド洋世界の学術交流:インドに所蔵されるメッカ・メディナ関連アラビア語写本に着目して

リエージュ大学哲学文学研究科 博士課程
大津谷 馨

研究の背景・動機・目的・意義
 本研究は、中世から近世の過渡期に盛んになった、イスラームの巡礼ネットワークを通じた、アラビア半島西部にあるイスラームの聖地メッカ・メディナと南アジアの間の移動が、アラビア語を通じた超域的な学術交流に対して、いかなる影響を与えたのか、考察するものである。
 15世紀以降、南アジアと、紅海沿岸地域の交流が活発化した。例えば、南アジアの支配者により、メッカやメディナに教育施設が建設され、南アジアからアラビア半島の両聖地に移住したムスリムも多く見られる。逆に、アラビア半島から、南アジアへの知識人の移動も盛んに行われ、両聖地から知識人が宮廷に招かれることもあった。
 このような中で、様々なアラビア語写本も、紅海沿岸地域から南アジアへ渡った。特に、メッカ・メディナの地理・歴史に関するアラビア語の作品の写本が多く残されているが、本格的な研究はまだなされていない。
 先行研究については、近年、特にインド洋を通じた紅海沿岸地域との交流の文脈におけるアラビア語の役割に対する関心が南アジア史研究の中で高まりを見せる一方、このことに関する紅海沿岸地域のアラビア語史料の研究者からの応答は十分とは言い難い。これは、南アジアがペルシア語文化圏(現在のイラン・南アジア・中央アジアなど、ペルシア語が行政語・文語として優勢だった地域)の一部だった一方、メッカ・メディナではアラビア語が共通言語として主に使用されており、地域や使用言語による研究分野の分断の傾向があるためである。
 さらに、中世後期にあたる15世紀から16世紀初頭にアラビア語歴史叙述が最盛期を迎えたことを考えると、その後これらの作品がどのように受容されていったかは重要な問題である。しかし、オスマン朝による征服を境に、紅海沿岸地域の中世史研究と近世史研究は分断される傾向があるため、この問題はまだ不明の部分が多い。
 本研究は、これらの問題を乗り越え、現在のインドの図書館に所蔵されるアラビア語写本の調査に基づき、両聖地の歴史や地理に関するアラビア語作品の流通や受容の状況に光を当てることを試みた。

研究成果・研究で得られた知見
 まず、インドの主要な図書館のカタログ調査および現地での写本調査を行い、少なくとも37点の両聖地の歴史・地理に関するアラビア語写本の所在を明らかにした。これらの著作年代を調べると、15世紀から16世紀初頭にかけての作品が半数近くを占めており、これは、上述した紅海沿岸地域と南アジアの交流が活発化した時期と一致する。
 作品別では、中世後期エジプトの歴史家サムフーディー(911/1506年没)によるメディナ歴史地誌『メディナ史』の諸作品の写本が最も数が多く、その中でも「縮約本」と呼ばれる内容の要約されたものが人気であったことが分かった。また中世後期メッカの歴史家ファースィー(833/1429年没)によるメッカ歴史地誌の縮約本や、紅海沿岸地域に渡った南アジアの歴史家の手になるものとして、ナフルワーリー(990/1582年没)とその甥による作品もそれなりに流通していた。このように、最も流通していた作品は、中世後期・近世初期にかけて書かれたものであった。ジャンルとしては伝記集や年代記よりも歴史地誌の作品が人気であることから、聖地の巡礼・参詣の際の手引きにもなるような実用的な内容が好まれていたことがわかる。
 写本の中には、17世紀に南アジア出身者によってメディナで書写された写本のようにアラビア半島で写され持ち帰られたと思われるものや、19世紀のコルカタのモスクで書写された写本のように南アジア内での知識の再生産が確認できるものもある。また写本の書き込みは読んだ箇所につける略号やアラビア語で内容を要約したメモが大半であったものの、南アジアで書かれたと考えられるペルシア語での注釈が一部含まれる写本も確認できた。これらを考えあわせると、両聖地の歴史地理に関するアラビア語作品が、聖地に関心を持つアラビア語を解するムスリム知識人の間で、19世紀まで継続して流通していたことがうかがえる。

今後の課題・見通し
 研究を進める中で、紅海沿岸地域と南アジアの間の交流におけるアラビア語とペルシア語の重なりについて考えるうえで、南アジアの知識人・スーフィーであるディフラウィー(1052/1642年没)の『メディナ史』が重要であることが判明した。この作品は、上述エジプトの歴史家サムフーディーによるアラビア語の『メディナ史』に基づいて主にペルシア語で書かれたものであり、そのことは南アジア史研究の文脈では言及されることがあったものの、中世後期アラビア語歴史叙述研究の中では全く知られてこなかったと言ってよい。今後は、ディフラウィーとサムフーディーの『メディナ史』の比較分析を軸に、紅海沿岸地域側の視点から、両聖地と南アジアの間の交流、またアラビア語文化とペルシア語文化の重なりの問題について考えていきたい。

2024年5月
現職:東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所 特任助教