成果報告
2022年度
コミュニケーションにおける情報遮断的振る舞いの研究─自然主義的観点から─
- 東京都立大学大学院人文科学研究科 博士後期課程
- 浅利 みなと
人は身振りや手振り、あるいは言葉を使うことによって、何かを意味することができる。発話によって何かを意味するとはどういうことなのか。この言語哲学上の根本的な問題に対して、数多くの哲学者が頭を悩ませてきた。しかし、そもそも発話とは何か、発話と発話でないものを分ける基準は何かといった問題は真剣に考察されてきていない。我々は発話によってコミュニケーションを始め、コミュニケーションの中で意味のやりとりをおこなうわけだが、そもそもコミュニケーションが始まるための発話とは何なのか。この問題を問うことによって、現在の言語哲学上の問題群を新たな視座から捉え直せないだろうか。
しかし、人間の発話は非常に複雑である。そこで、本研究は人間の言語をいきなり相手にするのではなく、動物の言語と人間の言語を連続的に捉える自然主義的観点に立ち、動物のコミュニケーションの概念的分析に着手することから始めた。人間が発話によって様々なことがらを意味するのと同様に、動物もシグナルによって様々な情報を伝達する。人間によるものであれ動物によるものであれ、コミュニケーションとは情報の「伝達」であるという見方は、多くの研究者にとって研究遂行上の前提である。発話やシグナリングが情報の「伝達」であるならば、発話やシグナルではないもの、つまり情報の「遮断」とは何なのかを問い、この理論化を試みることによって、発話とは何かという問題に漸近することができるかもしれない。こうした目的から本研究は始まった。
本研究が着目したのはカモフラージュである。カモフラージュとは主に自然物などに姿を似せることで、捕食者や獲物から見つかるのを防ぐ振る舞いであるが、これはベイツ型擬態(警告色によって有毒であることを知らせる種に無毒な種が姿を似せることで捕食者からの攻撃を避けようとする振る舞い)と一緒くたにされ、自然界における「嘘」や「だまし」として一般化されることがしばしばある。本研究の成果は、カモフラージュをベイツ型擬態から区分するための概念的基盤を提供したことにある。まず、カモフラージュを例として情報遮断的振る舞いを捉えるための一般的概念(私は「逆シグナル」と呼んでいる)を、動物のコミュニケーション研究の枠組みに無理のない仕方で組み入れることに成功した(『科学哲学』57号1巻に掲載予定)。次に問題となるのは、情報遮断的振る舞いの意味とは何か、である。本研究は、ブライアン・スカームズが提案した道具立てを借用し、あるシグナルの意味を、
そのシグナルが発せられることによって各事象の発生確率がどのように変化するか、という観点から捉えた。例えば、「明日は雨である」という天気予報(シグナル)の意味は、そのシグナルの聞き手が明日の天気について割り当てていた確率をどのように変化させたかを数学的に形式化することによって表現可能となる(厳密に言うと二つの確率分布のカルバックライブラー情報量をとる)。
この道具立てにより、カモフラージュとベイツ型擬態の違いをその内容の観点から区別することに成功した。より具体的に述べると、カモフラージュはありふれた自然物に同化することによって情報量を下げて自らの存在情報を伝達しないようにする振る舞いであるのに対して、ベイツ型擬態種(より一般的に嘘)は、実際には成り立っていない事態が成り立っているという情報を送りつつ、それによって部分的に自らの存在情報を遮断するという、いわば情報伝達と情報遮断の両方をおこなう振る舞いであることが明らかとなった。カモフラージュを例として情報遮断という概念に実質を与えただけでなく、情報遮断という概念を導入したことで嘘という概念に対して多層的な分析が可能であると判明したことは、本研究の思わぬ副産物である。この成果は、第25回日本進化学会およびPhilosophy of Science Around the World 2023にて報告をおこなった。
今後の課題は以下の三つである。一つ目は、本研究と先行研究の比較である。実のところ、本研究の過程において、展開型ゲームと反事実条件の概念を用いて、本研究と同じく情報遮断の概念の定式化を試みる先行研究を発見した(Bergstorm et al. 2020)。この研究と本研究が追究した情報遮断の概念との比較は喫緊の課題となるだろう。二つ目は、冒頭に述べた、シグナルおよび発話とは何かという問いに対して本研究の成果がもつ含意を考察することである。三つ目に、本研究が定式化した情報遮断という概念を人間の言語使用の分析へと適用することである。コミュニケーションとは情報の伝達であるという従来の前提を見直し、いかに我々が情報を伝えないように発話を調整しているのかという観点から、既存のコミュニケーション研究の地平の一部を塗り替えていきたい。
2024年5月
現職:東京都立大学大学教育センター 特任助教