成果報告
2022年度
<視聴者>の系譜:総合的人間科学としてのテレビジョン
- ダラム大学現代言語文化学部 助教授
- ショーン ハンスン
ダーラム大学のショーン・ハンスン(HSIUNG Hansun)と京都大学の岡澤康浩を中心に近現代日本のテレビ史を研究するプロジェクトを企画し始めたのは2021年の夏であった。テレビに関しては社会学・社会文化史・カルチュラルスタディーズなどに渡る研究がすでに多量に蓄積されている。これに対し、科学史を専門としながらメディア論に強い関心を持っている二人が目指したのはテレビを、視聴者という特殊な主体を対象とした科学的研究・工学的開発など多種多様な知の結節点としてとらえ返すことであった。周知の通り、テレビがほぼすべての家庭に設置されるようになる1970年代以降、日本全国に散らばる潜在的な消費者や投票者へと働きかけうる回路としてテレビの政治経済的重要性は高まった。これに応じてテレビ視聴者という存在を理解する学問的、社会的、商業的動きも強まってゆき、日本の社会理論家、批評家はテレビについての人文的なメディア理論を生み出し、独自のメディア論の系譜を作り出していった。しかし、こうした人文的メディア論と並行する形で、NHK放送技術研究所/放送科学基礎研究所等々といったような通信音響設備の開発を主眼とする組織においても、人間の知覚・認知についての心理学・工学・生理学を統合する学際的研究が、テレビ視聴者の登場を契機として行われていた。NHK視聴科学研究室に限っても、例えば計算機学者の福島邦彦が視聴者の情報処理能力を究明することによって初期人工知能のアルゴリズムを開発したり、または工学者の樋渡涓二が視聴者の眼球運動を調べることで視野の注意点を予測するアイカメラを開発したりした。こうして70 年代以降に視聴者の理解と介入のためにうみだされた人間主体の知覚・認知についての概念や実践は、テレビ以降に登場した新たなメディア環境を生きている人間理解の基盤を形成したと思われる。即ち、テレビは、放送番組の与える社会的・文化的影響とともに、現代テクノサイエンスの知が生成する場所でもあった。こうした歴史的視座を示すために、家庭内で消費される放送番組を想起させる「テレビ」ではなく、科学技術的性格をよりよく伝える「テレビジョン」という言葉を用いることとした。「テレビジョン」は「テレビ」に還元されない、種々の視聴覚的情報の長距離的な伝達と処理を可能にする技術を表す。既存のテレビ史に「テレビジョン」という新しい視点を持ち込むことによってメデイア論と科学技術史の交錯の可能性を探ることが、本プロジェクトの出発点であった。
人間の感覚刺激への反応や情報処理能力を扱う神経生理学、視聴経験を形作る映像や音声の通信に関する工学など、二人だけの力で十分に分析しきれない課題も多くあるので、科学技術史・思想史・医学史・メディア論に関わる若手研究者を国内からも海外からも広く招き、2022年の夏に10名の国際共同研究チームを形成した。その後、サントリー文化財団の助成を蒙り、2022年8月から2023年7月まで、史料調査とともに月毎に研究会を開いた。そしてより穏やかな国際親睦を図り、2023年6月17〜18日に京都大学人文科学研究所において「〈視聴者〉の系譜:ある文化的主体の科学技術的形成」という国際大会を開催し、基調講演者としてハーバード大学のAlexander ZAHLTEN教授と京都大学の喜多千草教授を招聘した。予想以上の話題になり、5ヶ国(日・英・米・露・シンガポール)から約50人が参加くださり、刺激的な討論ができた。この国際大会の研究成果は2024年に刊行予定である。
2023〜24年度は引き続きサントリー文化財団の助成を仰ぎ、分析対象をNHK放送科学基礎研究所視聴科学研究室に絞ることに決めた。そこで大きな困難となるのはアーカイブの問題である。従来のテレビ史はNHK放送文化研究所が編纂してきた「放送史」に代表されるように、主として社史的・事業史的叙述に加えて放送内容が中心となっている。そのため、現在日本におけるテレビアーカイブは映像・音声資料の場合、もっぱら「公開番組」に限定されており、また文書の場合も放送史に関わる資料に傾斜している。NHK放送科学基礎研究所視聴科学研究室で働いた研究者による刊行物は現存するが、科学技術史としての「テレビジョン」史を深く掘り下げるには研究室の内部資料(例えば内部報告書や実験ノート)、あるいは研究室内において実験研究用に使われた装置・映像・音声などが利用可能になるのが望ましい。そのため、テレビ研究者・科学技術博物館関係者・NHK技研関係者を招集し、2023年11月末に「科学技術史のためのテレビジョン・アーカイブ」というワークショップを開催する予定である。それから、2024年1月〜4月にかけて、NHKのOB会を通じて、視聴科学研究室で活躍存命の10人にインタビューし、オーラルヒストリーを編纂する予定である。
2023年8月