成果報告
2022年度
建築空間を事例とする16-17世紀畿内の南蛮文化の研究
- 東京大学大学院工学系研究科 博士後期課程
- ダ シルバ ホッシャ ジョアネス
研究の動機、意義、目的
東アジアにおけるイエズス会の宣教師たちの活動を考える際、従来は布教活動に直結する「宗教空間」や教義そのものが研究対象となることが多かったと思われる。これに対して、本研究は、イエズス会は宗教的集団であるものの、一部の宣教師らは布教地の喫茶文化や建築空間の概念を理解し、信仰者、非信仰者に関わらず、客人を適切にもてなすために現地の風俗習慣に則った接客空間―すなわち「世俗空間」―を教会やセミナリヨに設けたことを明らかにする。
具体的に言うと、長崎のイエズス会に布教長として着任したFrancisco Cabral(フランシスコ・カブラル)が日本文化への適応を明確に拒否した一方で、京都で長く過ごしたGnecchi-Soldo Organtino (グネッキ・ソルディ・オルガンティノ)は、高山親子(高山友照と高山右近)や堺の大商人の日比屋了珪といった権力者と関わりを持ち、また現地の風俗習慣の影響を受けながら、天正4年(1576年)に建てられた南蛮寺(正式名称:被昇天の聖母教会)に茶の湯が実践できる座敷を設計するに至った。
建築空間の視点から見ると、宣教師たちが日本におけるもてなしについて、「接客空間とは、お茶が提供される場所である」と単純に捉えていたが、茶の製法 が変化するにつれて、その建築空間も変化していったと考えられる。日本における書院造の座敷は、留学僧によって請来された影響もあり、武士階級の社会において茶会や来客のための場として重要視された。特に戦国時代には、座敷が政治上の交渉や情報交換の場として重要な役割を果たし、茶を点てる、季節を楽しむ、花や美術品を愛でるといった、茶の湯の一連の場づくりを「おもてなしの総合芸術」と表現することもある。なお、茶の湯の座敷はすでにこの集会の本質を有しているので、Luís de Almeida(ルイス・デ・アルメイダ)とLuís Fróis(ルイス・フロイス)が畿内の信者の集まる茶の湯の座敷でミサ典礼を捧げたことを述べているのは驚くにはあたらない。
研究成果や研究で得られた知見
これまでの調査では、長崎のイエズス会とは違い、京都では貿易ではなく、権力者との政治的なつながりと寄進を通じて支持を得ることが最も重要だったと考えている。彼らは現地の権力者との友好的な交流関係を築くため、布教地の言語と儀礼のみならず、建築空間のおもてなしまで理解し、適切な「接客空間」を宣教方策の一手段として用いて、客人を歓迎したことが明らかになった。ただし、Alessandro Valignano(アレッサンドロ・ヴァリニャーノ)の『日本イエズス会士礼法指針』を通じて、「宗教空間」である聖堂についてはヨーロッパ式を忠実に再現し、「世俗空間」である接客空間だけ現地の習慣と礼儀作法に従って建設された。このようにして、教会の身廊と客間の建築空間には「聖」と「俗」の二面性が生まれた。
さらに、茶の湯を通じた接客と人間関係をどれほど重視していたかが浮き彫りになるであろうし、これまで看過されてきた建築空間と茶文化に関する史料を利用することで、広範囲に南蛮文化を捉えることにより、新たな知見を提供することが期待できるだろう。特に千利休の弟子と言われている高山右近との交流があった点は重要である。加えて、ヴァリニャーノは巡察師として日本各地を訪れ、九州の状況に不満を抱いていたため、京都の南蛮寺(日本の習慣に則って設計された縁側、庭と茶の湯の座敷がある教会)を理想的なモデルにしたこともわかってきた。
今後の課題・見通し
以下は、これからの本研究において最も重要な二つの課題である。
第一に、喫茶文化は中国で生まれたため、在華宣教師らがどのように中国茶文化を受容したのかについて分析していく。これまでの調査で、中央政権の置かれた二つの京(北京・京都)のような都市では、宣教師らは現地固有の建築様式と原理に適応せざるを得なかったことが判明した。上記のように、京都では、主に茶の湯のために和風の「座敷」が導入されたが、北京では明朝末期から清朝初期にかけて、官吏や科挙の受験者、さらには清朝皇帝を迎えるために中華風の「書斎」が用意された。しかし、現時点での研究はまだ不十分といえる状況にある。
第二に、京都の「座敷」と北京の「書斎」といった「プライベートな空間」は主に男性ゲスト向けに意図されていたと考えられる。なぜなら、当時、上流階級の女性は父親や兄弟以外の男性と客間で二人きりになることに寛容ではなかった。今後の研究では女性信者に焦点を当て、イエズス会の宣教活動における「ジェンダーと接客空間」の問題を中心に分析していく。
2024年5月