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研究助成

成果報告

若手研究者による社会と文化に関する個人研究助成(鳥井フェローシップ)

2022年度

オルタナティヴとしての文化:国家安全維持法施行後の香港におけるポピュラーカルチャーとアイデンティティ

東京外国語大学大学院総合国際学研究科 博士後期課程
小栗 宏太

 本研究はポピュラー文化を通じて昨今の香港を理解することを目標としている。ここでいうポピュラー文化とは、つまり商業的な利益を目的に作られ、大衆によって日常的な娯楽として気軽に消費されるような文化であり、映画や音楽といったメディア文化のほか、飲食物などの消費文化も含む広い概念として用いている。
 かつての日本においては、香港がまさにそのような文化を通じて親しまれていた。1980年代から90年代にかけては、学界のみならず広く一般社会においても、香港の飲食文化や芸能文化が注目され、盛んに論じられていた。しかし1997年のイギリスから中国への返還を挟んだ2000年代以降には、中国中央政府と香港市民の間で様々な政治問題が顕在化したこともあり、日本における香港関連の報道や言論も、2014年の雨傘運動や2019年の逃亡犯条例改正反対運動などの民主化運動や、返還後の「一国二制度」のあり方などの政治的話題が中心となっていった。
 しかし日本で注目されることが減っても、香港においてポピュラー文化が盛んに作られ、消費されていることに変わりはない。本研究は香港社会の「政治化」以降の文化の状況を取り上げ、香港をめぐる関心のギャップを埋めることを目指している。
 さらに今日において文化を中心に香港を取り上げることには、積極的な意義があると考えている。2019年の反体運動の後、政府が進めた一連の「国家安全」関連の制度改革により、香港の政治情勢が激変したためである。2020年の国家安全維持法制定以降、反体制的言論が厳しく統制されたため、世論調査や選挙分析、報道といった旧来の社会分析において中心的に用いられてきたチャンネルを通じて香港社会を観察することは難しくなっている。そこで本研究では、社会分析のための「オルタナティブな領域」として、直接的な政治活動とは異なるポピュラー文化の領域に目を向ける。

 助成期間中の調査に基づき、今日の香港においてポピュラー文化の社会的、政治的な影響力が高まっている様子を多方面から観察することができた。
 第一に、国家安全維持法制定後の香港では、アイドル・グループMIRRORの流行をはじめ、娯楽産業が返還後最大とも言えるブームを迎えている。カントポップと呼ばれる広東語流行歌シーンでは新人歌手が数多く人気を獲得し、映画業界では興行収入記録を塗り替えるヒット作が次々と生まれている。
 第二に、こうした娯楽等の消費は時として隠れた民意を表出させるチャンネルとしても機能する。たとえば歌手や歌、あるいは飲食店に対する政府の規制が、かえって再生数や売り上げを急増させたり、反対に政府寄りと目される歌手・店舗の人気が低下する現象が観察されている。反体制派メディアが閉鎖され、選挙からも反体制派が排除され、旧来型の世論調査も困難になりつつある今日の香港において、こうした個人の消費に基づく指数は、政府に対する不満が公に示されうる希少な領域となっている。
 第三に、香港政府もこうした個人の消費を通じた間接的意見表明に警戒を強めている。2023年以降、政府高官らは直接的な政治活動によらない反体制的意見の表明を「軟対抗」(ソフトな抵抗)と名付け、重大な国家安全上の懸念とみなすようになった。この概念に関連した規制は、2024年3月に新たに制定された国家安全維持条例にも盛り込まれている。
 第四に助成金を用いたイギリス、台湾における現地調査に基づき、こうしたポピュラー文化の影響力が香港内のみならず在外香港人コミュニティにも及んでいることを観察できた。国家安全維持法制定以降、香港を離れイギリスや台湾に移住する人々が増加したが、彼らの中には移住先で香港のローカルな飲食を提供する店舗を経営する者もいる。そして、そうした店舗においては、香港の近年のアイドル歌手を応援する活動も行われていた。イギリスでは2023年、香港の歌手によるライブも次々と行われ、多くの観客を集めた。ポピュラー文化の領域が、政治的事情を理由に香港を離れた人々を心理的に香港と結びつけ直す役割を果たしているのである。
 こうした研究成果は、すでに文章や口頭発表を通じて部分的に公にしているほか、助成期間中に脱稿し、近日中に刊行予定の単著『香港残響:危機の時代のポピュラー文化』においても取り上げている。
 自由市場を通じて流通する個人的な消費文化の興隆は、かつては社会主義独裁や開発独裁が終わり、社会が開放に向かう時代の兆候ないし象徴として取り上げられたこともある。しかし近年の香港の事例は、成熟した自由市場が強権的な政権のもとに組み込まれるという逆方向の動きを示している。民主主義の退潮が懸念される昨今において、香港のこうした経験はおそらく孤立したものではない。その意味で本研究の成果は、今日の世界におけるポピュラー文化の社会的政治的意義を考察する他地域、他領域の研究に対しても大いに寄与すると考えている。

 

2024年5月

※現職:東京外国語大学 アジア・アフリカ言語文化研究所 ジュニア・フェロー