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研究助成

成果報告

若手研究者のためのチャレンジ研究助成

2021年度

温泉の進化人類学:温泉利用が霊長類の社会性に与える影響の解明

信州大学理学部 助教
松本 卓也

研究の動機・意義・目的
 われわれは過去に戻ることができない。それでも、「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」を問うことが人類学だとするならば、タイムマシンを発明しようと躍起になるよりまず、私は進化の隣人たるサルたちを見つめる。私たちと似ているようで異なる、あるいは異なるようで似ているサルたちを観察することで、人類とサル、それぞれの進化史を探るヒントが得られるはずだ。
 本研究の対象は、冬季に入浴するスノーモンキーとして著名な地獄谷野猿公苑のニホンザルである。エジプト文明における大規模な公衆浴場、ギリシャのテルマエなど、昔からヒトは世界のあらゆる土地・社会で温泉を利用してきた。さらに、初期人類の化石が多く発掘されているオルドバイ渓谷の170万年前の地層分析から、現生のヒトの誕生以前から、温泉という生態系が人類と共にあったことがわかっている。本研究は、ニホンザルと温泉の関係性を動物行動学的に解明することで、「温泉が霊長類の進化と社会に与えた影響を解明する」というチャレンジングな課題に挑む。

 本研究調査地である長野県下高井郡山ノ内町平穏にある地獄谷野猿公苑近辺(上信越高原国立公園特別地域、および普通地域)は、世界で唯一、野生のニホンザルも入浴する場所として知られており、記録上は1960年代からニホンザルの入浴が観察されている。ヒト以外の陸上哺乳類が長年にわたって入浴するような環境は他に例がなく、その特異な温泉生態系に着目した研究を進める。

研究の成果
 地獄谷野猿公苑近辺に生息するニホンザルの個体識別と温泉に関わる行動観察、およびニホンザルの採食が確認された湯の花(温泉成分が析出したもの)のサンプリングを行った。温泉入浴行動では、先行研究では報告のない低順位家系個体による入浴行動が観察され(長谷川 2023)、高順位家系に限らず多様な家系血縁系の個体が入浴していることが明らかになった。さらに、低順位メスであるトミコが、αメス(直線的な順位序列が認められるニホンザルにおいて、最も順位の高いメス)と温泉内でのみ高頻度で近接し、また毛づくろいを相互に行っていた事例は特筆に値する。ニホンザルの社会は専制的と表現され、順位序列がはっきりとした社会と言われる。そういったニホンザル社会において、温泉内でのみ順位の差を感じさせないやりとりが観察されたということから、温泉がニホンザルの社会を寛容的なものに変容させた可能性が指摘できる。しかしながら、そうした傾向がトミコ(個体)特異的な現象なのか、あるいは地獄谷のニホンザル集団に一般的な傾向なのかについては、今後も継続した行動観察が必要である。
 また、温泉の水を飲む行動(飲泉行動)に関して、近くの川の水よりも有意に多く温泉を飲んでいることが確認され、ニホンザルにとって温泉水の摂取に何らかの利益が示唆された(中岡 2023)。今後、温泉水および湯の花の成分解析、腸内細菌叢解析等を通して、ニホンザルと温泉成分・微生物叢との関連性を明らかにする予定である。
 また、ニホンザルの採食事例が観察された温泉バイオフィルムについて、微生物叢を解析した。温泉の温度やpH、栄養塩成分などは源泉によって異なる。そして、温泉は極限環境のひとつとして微生物学研究も多く取り組まれてきた。本研究では、地獄谷温泉を微生物・哺乳類間相互作用の新たなモデルケースと捉え、ニホンザル入浴槽水中の微生物叢の時間的・空間的な変化を記述することで、動物の入浴という条件が温泉中の微生物叢の多様性にどのような影響を与えるか調べた。
 具体的な方法として、地獄谷野猿公苑近辺の源泉10地点においてバイオフィルムを採取し、バクテリア16Sアンプリコン解析(V3-V4領域)を実施した(c.f. Colman et al. 2016)。同時に、温泉の水質調査を行い、微生物叢との関連性を検討した(寺森,…松本 2022)。公苑スタッフにより浴槽の清掃が3日に1回程度行われている。清掃直後からニホンザルが入浴することによって温泉水中の微生物組成がどのように変化するかを、源泉サンプルを対象群として比較解析を実施した。そして、源泉が掛け流される地点と排水される地点での微生物叢の比較から、微生物生態系に空間的な差異が認められるかを調べ、時間的・空間的変遷に伴って、温泉由来の微生物と動物由来の微生物がどのように交わるのかを考察した。その結果、入浴水中の細菌叢の大きな時間的変化は見られず、入浴の有無にしたがって水中の細菌叢が変化していることが明らかになった。つまり、ニホンザルの入浴は、ニホンザルの社会性に影響を与えているだけでなく、温泉内の微生物叢にも影響を与えていることが明らかになった。今後の展望として、頻繁に入浴するニホンザルとそうでないニホンザルとの腸内細菌叢とを比較することにより、ニホンザルの腸内細菌叢にまで温泉入浴の影響が見られるかを検証する(熊倉,…松本,早川 2022)。

2023年5月