成果報告
2021年度
近代日本における西洋音楽理論受容の歴史的研究:東京音楽学校の作曲教育を軸として
- 東京藝術大学音楽学部 非常勤講師
- 仲辻 真帆
本研究の目的は、これまで詳細に考察されてこなかった近代日本における西洋音楽理論受容の様相について、一次資料から具体的に明らかにすると同時に、わが国の作曲教育の歴史的変遷の一端を実証的に解明することであった。
本研究の動機や意義は、現代日本の音楽文化や音楽教育について検討するにあたり、「近代」という時代性をふまえたうえで当時の音楽事情を明らかにすることが必要不可欠ではないか、という問題意識と関連している。明治時代に西洋音楽が「受容」された背景と、その理論的枠組みがどのように日本の音楽教育に取り入れられてきたのかを究明することは、大局的にみると日本人が西洋音楽とどのように向き合ってきたのか、そしてわが国において「音楽」の認識がどのように形成・変容されてきたのかを考察することに通じると考えられる。この重要な主題に関して、特に西洋音楽の理論受容および理論教育という着眼点からアプローチした歴史的研究は極めて少ないという現状にある。そうした状況に鑑み、本研究では、近代日本で最も早く音楽専門教育機関として文部省内に設置された音楽取調掛およびその後身の東京音楽学校(現在の東京藝術大学音楽学部)に焦点を絞り、音楽理論の中でも早々に教育科目の一つとなった和声学を含む作曲教育の成立と展開を明らかにしたいと考えた。
近代日本の音楽文化は国民国家形成と連動したものとして機能し始め、当時の学校教育で実施されていた「唱歌」は身体や徳育の涵養という観点で重要視されていた。そうした中で日本人が西洋音楽を「受容」し、新しい音楽理論を用いて自らのアイデンティティを追求してきた過程こそが、創作領域の開拓に繋がっていったと言うことができるであろう。西洋音楽を「受容」した後の日本の創作史に関する先行研究では1900(明治33)年頃が草創期とされているが、これは瀧廉太郎(1879-1903)が組曲《四季》を発表し「唱歌」から「芸術歌曲」への転換を試みた年であり、瀧も学んだ東京音楽学校のカリキュラムが大幅に拡充され現在へ至る基礎が確立された年でもある。東京音楽学校は、唯一の官立音楽学校であり、その教育内容には当時の国策や時代背景が刻印されている点においても歴史研究の対象に適している。
本研究では、従前ほとんど検証されてこなかった東京音楽学校の作曲関連資料を調査し、当時の音楽教育や音楽観と併せて考察を深めた。特に音楽理論の中でも重要な和声論に関しては、教員の音楽経歴、使用教材、指導内容を明らかにすることで、教育や創作の根幹を担う理論がどのように形成・変容されてきたかを検討しようと試みた。明治期から昭和戦前期に出版された日本人による和声関連書籍および日本人作曲家が西洋音楽理論を昇華して自国の伝統と融合させようとした試みである「日本和声」や「日本旋法」を参照軸とし、「音楽理論の認識の枠組み」であり音楽教育の重要な一要素でもある和声学について、現代に至る潮流を浮き彫りにし音楽教育史の再考に寄与することを目指した。
本研究の成果および得られた知見として、音楽取調掛・東京音楽学校における和声教育について明治後期から昭和前期の音楽理論教育や和声理論書出版状況とあわせて複眼的に考察を深めてきたことにより、現代の日本の音楽専門教育で使用されている「機能和声」やTDS記号の使用は、昭和初期=1930年代から音楽専門教育で本格化したことなどが明らかとなった。つまり、20世紀前半の和声教育は今日への直接的な連結がみられる点で非常に重要であることが指摘できる。明治後期には音楽取調掛でアメリカの教員およびテキストによって和声学の伝習が開始されたが、昭和初期には東京音楽学校本科作曲部が新設され、そこで指導にあたった教員たちがドイツの音楽理論を浸透させてゆくこととなった。教育内容が各時代の社会的・文化的背景と連動していたことは言を俟たない。
本研究では、和声教育において使用されたテキストや試験問題を調査し、具体的にどのような指導がおこなわれていたのかを明らかにしてそれらを時系列的に整理した。しかし、残された資料から特定できる教科書は多くなく、詳細な指導内容の追究は不充分であるため、継続的に調査することが今後の課題である。また、今回の研究で重要性が認められた和声学の書籍および教員については引き続きそれぞれの関係性や特徴を精査したい。
本研究の今後の課題およびその解決により期待される展望として、1:音楽教育における「理論」と「実践」の連結、2:音楽取調掛・東京音楽学校への批判的考察に基づく音楽教育史の再考、3:近代日本音楽史における様々な試行や可能性を現代の音楽教育へ活かす道筋の模索、という3点が挙げられる。これらの重大な課題に向き合うため、今回の調査対象を多面的に再検討しつつ、少し視野をひろげて研究を展開させる必要がある。
2023年5月
現職:東京藝術大学 非常勤講師