成果報告
2021年度
中国共産党の対チベット政策
- 慶應義塾大学大学院法学研究科 後期博士課程
- 金牧 功大
目的と内容、意義
本研究の目的は、中国共産党(以下、党とする場合がある)の内部資料を含んだ新しい大量の資料を収集し、1949年の中華人民共和国(以下、中国とする)建国以降、文化大革命の開始(1966年)に至るまでの中国のチベット政策の変化の過程を詳細に描き出すことにある。本研究の対象に含まれる1950年代は、十七条協約によってチベットの中国への帰属が決定したり、ダライ・ラマがインドに亡命したりするなど、今日の中国・チベット関係の原型が形作られた時期である。チベット独立派や党による主張から距離を置き、あくまでも一次資料に基づき、この時期における党のチベットに対する認識、政策、およびその実態を眺めてみることは、いわゆる今日の「チベット問題」の根源にせまる作業といいうる。
党のチベットに対する政策の変遷と統治の実態は、近年にわかに注目を集めるようになった新疆に対する政策とともに、中国という国家による(あるいは党による)統治の性格をよく観察できる「窓」であるといいうる。結局のところ、北京とラサの関係は、漢民族による周辺民族に対する一種の「植民統治」なのだろうか?それとも、われわれはそこに中国革命の理念が掲げたところの「諸民族の融和」に向けた着実な歩みを見出すことができるのだろうか?本研究は、党の対チベット政策の変遷を明らかにすることを主たる目的とするものであるが、この作業を通じて、中国という国家の性格、あるいは中国革命の到達点と限界についても再考することになるであろう。
1950年に始まるラサへの進軍において経験した困難や1952年の「人民会議事件」などを踏まえ、党はチベットの「民主」改造や更なる統合にモラトリアムを設け、チベットに歩み寄ることにした。しかし、次第に「穏健・慎重」という当初の方針を放棄し、これに応えるように再びチベットが反発するようになった。こうした事態を受け、あるいは国内の政治運動と呼応し、党は再び政策を急進化した。こうした動きは、最終的に1959年のラサ大暴動を導いたと考えられる。党が「穏健・慎重」な方針を忘却し、あるいは意図的に無視し、慎重さを失い急進化すると、少数民族側は反抗をもってこれに応え、すると民族政策はにわかに慎重さを取り戻すというサイクルは、他の少数民族政策にも見られる。
党の対チベット政策の変遷それ自体を詳細に描き出した研究は、資料の不足も手伝って管見の限り存在しない。本研究は、中国現代史の重要な一部でありながら、従来十分に明らかにされてこなかった部分に光を当てることを目指す。研究成果を学術ジャーナルや学会において報告することによって、先行研究における空白地帯を埋め、ひいては世界がチベットに対していかなる態度をとるべきかをめぐる政策的議論にも一石を投じることができると信じる。
研究で得られた知見
一般に、チベットに対する党の政策は武力一辺倒であったと理解されてきた。しかし、建国直後の党指導者たち、特に毛沢東の脳裡には、ある種の「穏健」な政策と武力に基づいた政策が不可分一体の形で存在していた、あるいは存在し得たのである。もっとも、この「穏健な政策」をチベット側がどのように受け止めたのかは、想像に難くないだろう。こうした理解の齟齬は、チベットにおける悲劇を招く一因となった。
また、党の対チベット政策はある種の「妥協の産物」でもあった。当初、党が思い描いていた全チベットの早期「解放」の夢は、ラサに向けた進軍の過程で潰え、結果として、ある種の「妥協の産物」としてのチベット政策が生まれたのである。
今後の見通し
研究の成果物は、査読付きジャーナルに投稿する。(既に『日本西蔵学会会報』第69号への掲載が決定した論文がある。2023年10月刊行予定。)また、学会における発表も行う(2022年11月「第70回日本チベット学会大会」にて報告した)。最終的には、これらの学術成果をまとめ、自身の博士論文とする。
本研究の大部分は、貴財団の助成によって遂行することが可能となった資料調査で収集した一次資料に依拠している。つまり、貴財団の助成なくして執筆し得なかったものである。多大な助成に、心から感謝する。
2023年5月