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研究助成

成果報告

研究助成「学問の未来を拓く」

2021年度

魅惑の「美声」:近代日本における声と情動に関わる言説構築過程の学際的研究

成蹊大学文学部 教授
日比野 啓

 本研究でやり残したこと、心残りなことは数多い。「研究成果」といえるようなものは(1)論文・研究書というかたちでも、また(2)たとえそのような形に残らなくても、研究参加者に共通する問題意識や分析のための概念群の醸成も、まだない。「(近代日本における)声の美学」とは一体どんなものであったか、人文科学諸分野の知見を一つに集めて探るという、本研究の目標は手前味噌ながら大変魅力的であり、野心的なものだと自負しているが、一年間という助成期間では歯が立たなかったし、「もう一度出直してきます」と降参するしかない、というのが本当のところだ。ろくに成果を上げることができなかったのは、新型コロナウィルスの感染状況を恐れて対面での研究会を三回しか開くことができなかったことからでもある。だがそれ以上に大きかったのは、異なる分野の人文科学研究者が共同研究をやるにあたって、それぞれの出自の違いが建設的な議論の大きな妨げになることを(予想していなかったわけではなかったが)過小に見積もっていたことだ。
 とはいえ、参加者全員が本研究の方向に将来性を感じており、三回の研究会で行った議論が本研究の可能性を大きなものにしたことも本当だ。まず、認知科学の知見をそのまま生かすことが難しいことが分かった。認知科学では種々の条件を捨象し、人類の脳は「普遍的な」美声を識別できるという仮定のもとに実験を行っている。発話状況や聞き手との関係性とは無関係に存在し、文化や時代を超越した「美声」はあり得ないという、人文科学の知見を踏まえて理論構築をしている研究は管見のかぎり見当たらなかった。認知科学者のなかには、私たちと問題意識を共有できるのではないかと漠然とした予感を抱かせる人々もいるにはいた(研究論文を読んでも区別はつかなかったが、一般読者に向けた書籍で用いる言葉の端々に自分たちの「仮説」はそれほど強固ではないという示唆が窺われるような著者が一人二人いた)けれど、人文科学の研究者間の「方言」の違いに一年間苦労したことを考えると、認知科学者と有意なコミュニケーションを取るためには、相当長期間の準備期間を費やす必要がある。「(近代日本における)声の美学」が言説的/社会的構築として存在してきたという仮説を私たち人文科学の研究者が大前提とするにあたって、認知科学の知見はひとまず使わないでおこう、という同意が得られた。
 次に、演劇学・民俗学・文学のそれぞれの分野において「声の美学」(らしきもの)は構築されてきたことはお互いに伝えることができたが、それを分野を越えた「共役可能な」議論にすることの難しさを確認した。文学作品において表象される声はたんなる文字の羅列ではなく、読者の脳内に「物質性」としかいえないものをもたらす、と文学研究者が主張すると、では浪曲師の声の持つ物質性とそれはどう異なり、どう同じであるのか、と民俗研究者が疑問を投げかける。それに呼応して演劇研究者が、現在SPレコードでしか聴けない浪曲師の声の物質性は、生で当時の人々が耳にした物質性と一緒くたにして論じられるのか、と問う。議論はまず、発展させられる前に、それぞれが用いる用語の定義を問いただすことから始まり、さらにそこで用いられるそれぞれの分野固有の概念の範囲や有効性に留保することが続くと、結論に向かって無限退歩していくように感じられたこともあった。それらの議論を経て、私たちは何がしかの共通理解を得られたと感じられたこともあり、またそうでないこともあり、ということはこうやってひたすら議論をしていき、問題意識は集約されるというより拡散していくようにも思われるのだが、とりあえず「拾える」成果を拾っていくことが唯一の正解なのだということが分かった。
 異なる人文科学の研究者が集まってああでもないこうでもないと議論をやりとする、そのこと自体が貴重な体験だという認識を参加者はみな抱いており、本助成によってその機会を与えられたことに大変感謝している。そして来年度以降、科学研究費・挑戦的研究(開拓)に申請し、時間をかけてこのやり方で本研究を進めていけば、必ずや「(近代日本における)声の美学」についての学際的理解ができると信じている。けれども残念ながら今、このような成果でしたと外に向かって誇るべきものを私たちは持たない。私たちは皆、個人の研究者としてはこれまでそれなりの成果と実績を上げてきたわけであるし、形ある研究成果がなければ研究者にあらずというこの三十年のアカデミズムを生き抜いてきたのだから、「サントリー文化財団研究助成の成果」として、個々の研究成果を一年以内に提出することはできるし、そうするつもりだ。だが「大人の事情」を考慮した上での成果発表は一年以内にできたとしても、共同研究としての成果はまだ途上にあることを素直に吐露して、筆を置くことにする。

2022年8月