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研究助成

成果報告

研究助成「学問の未来を拓く」

2021年度

島の生活誌と東アジア人類史―弥生時代の琉球列島はなぜ稲作農耕を受け入れなかったか

琉球大学国際地域創造学部 教授
後藤 雅彦

 琉球列島において、本土弥生文化との接触があったにも関わらず、稲作農耕を受け入れず、狩猟採集から農耕段階への移行は10世紀以降とされる。それより以前の農耕の可能性について沖縄貝塚時代後期(弥生時代平行期以降)に遡って、稲作農耕の拡散はなかったのであろうか。
 「資料の空白」をどのように考えるのか、拡散という現象について、波及と定着を段階的に捉えることによって、稲作文化との交流の中で、稲作農耕が波及されながらも定着するに至らなかったと考えてみたい。
 まず、問題設定の前提として、農耕の波及について再検証する必要がないか。「島の生活誌」という視点で、各遺跡の立地環境は重要である。従来の沖縄考古学研究の理解の中でも各時代の遺跡立地の傾向が捉えられており、貝塚時代後期の沖縄諸島(本島及び周辺)では、九州弥生文化との貝交易が盛んで、遺跡も海岸砂丘上に立地する事例が多い。但し、マイナーな事例であるが、沖縄諸島各地で内陸側に立地する遺跡(洞穴遺跡を含む)が存在する。そこで、後世に稲作適地となる久米島を中心に沖縄諸島の海岸砂丘地以外に立地する遺跡の状況確認を進めたが、コロナ禍によって更なる考古学調査の実施が困難になったため、調査研究を継続することにした。
 また、「島の生活誌」を復元するにあたって、本研究では、韓国から台湾にかけての東アジア島嶼域と比較研究する計画であったが、コロナ禍によって、新たに東アジア島嶼域の実地調査を含めた比較研究を実施することができなかった。そこで、研究代表者がこれまで注目してきた台湾の対岸の多数の島々を含む東南中国における稲作の拡散について、「島の生活誌」として整理し直した。同地域では、Ⅰ期(紀元前6000年頃)に貝塚が出現し、Ⅱ期(前4000年以降)に各地で広く貝塚が形成され、Ⅲ期(前2500年頃)の内陸側では長江下流域の影響を強く受けた農耕社会(石峡文化)が形成されるが、沿海側では貝塚形成が継続、Ⅳ期(前2000年以降)の中国初期王朝形成期で活発な人の動きによって沿海側にも稲作文化が波及し、一部定着するという変遷をたどる。
 長江以南の東南中国は丘陵・山地が多く、各地域の先史文化はそれ程広い分布範囲をもつことなく持続した地域色の濃い地域文化が展開していた。稲作農耕の拡散(波及・定着)も東南中国の地形的制約から、それは面的な広がりというよりも、各地域における受容のあり方には差異が生じている。
 珠江三角州において、最近の調査で石峡文化からの強い影響が想定される遺跡でイネ資料が検出されている。東南中国沿海側でも農耕文化の影響が強い場合、波及から定着へ進んだと理解される。考古学資料として生活用品である土器から祭祀・儀礼に関わる玉器に及ぶセットとして搬入されている状況を示している。その背景には、ある程度の人間集団の移動・移住が想定される。すなわち、稲作の定着期の検証にはある程度の規模の人の移動が認められるか否かが問われるのである。
 それに対し、珠江三角州の島々にはこうした規模の移動・移住が行われていなかった可能性が高く、海に依存する生業形態として活発な漁撈活動を想定される。宝鏡湾遺跡(Ⅲ~Ⅳ期)は、石峡文化の影響と考えられる鼎足や石鉞が出土するが、大量の石錘や石碇(錨)が出土し、漁撈活動が活発であったと考えられる。ただし、農耕自体の可能性が全く考えられていないのであろうか。「島の生活誌」として、漁撈活動が活発であったのに対し、農耕を補完的なものとして考えられている。その根拠の一つにあげられているのが、耕作具として考えられる石钁の出土事例である。石钁は石峡文化で多く使用されているが、沿海地域では極めてマイナーである。波及期の検証には、こうしたマイナーな事例の検討が必要になってくる。
 琉球列島を含む東アジア島嶼域において、緩やかな変化が続き先史社会が長く持続する。一方、島における居住の変遷の中には断続的な推移も見受けられるが、周辺地域との交流を契機に再生(島での居住)が認められる場合がある。ここで、東南中国の海壇島に注目すると、遺跡はⅡ期から出現し、Ⅲ期になるとやや減少し、Ⅳ期になって海壇島が東南中国の沿海ルート上に組み込まれたと再び増加する。遺跡立地の傾向も、Ⅱ期を主とする新石器時代は海抜5~20mに立地しているが、Ⅳ期になると、遺跡立地が多様化し、より内陸の海抜高度の高い遺跡がみられるようになる。島における「再生」は、新たな交流を契機としながら、島での新しい生活を切り開こうとする人々の動きがあるように考える。久米島における貝塚時代後期における海岸砂丘上の遺跡に対して、マイナーな事例であるが、より内陸にある遺跡の動向もこうした人々の動きがその背景になっていたのではないだろうか。「弥生時代の琉球列島はなぜ稲作農耕を受け入れなかったか」について、島と外との関係としての交流のあり方としてばかりでなく、持続と再生の両側面を示す「島の生活誌」の中で考えていきたい。
 それによって、「島の生活誌と東アジア人類史」としたように、「島の生活誌」から如何に、東アジア人類史を再構築することができるか、グローカルな視点の有効性を検証することができると考える。

2022年8月