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研究助成

成果報告

研究助成「学問の未来を拓く」

2021年度

「復興」という理念を棄却する:被災者の実践にみる復原的意味

東京大学生産技術研究所 特任研究員
窪田 亜矢

1.研究目的
 「復興」とは被災前よりも良い姿を目指す理念だ。とりわけ安全性の向上に重きが置かれる。そうした「復興」を実現するために、行政が主導的に復興計画を策定して、技術基準を駆使しながら空間改変を履行していくべきという考え方が、災後の常識となっている。
 被災現場では、被災者による生活環境への手入れなどの実践が、ささやかながらも自ずと始まることがある。しかし、こうした自然的実践は、復興計画によって阻害されたり復興事業の進行によって消失したりする。自然的実践の意味とは何だろうか?

2.被災現場における自然的実践
 以上の問題意識のもと、阪神・淡路大震災、東日本大震災(津波被災、津波と原発事故の複合被災)、紀伊半島大水害などの被災現場において、被災者らによって「何かを取り戻そうとしている」自然的実践を収集した。復興計画との差異が明確になるように、自然的実践の三つの特徴を以下に整理する。
 まず、被災前の個人の日常生活を当事者自身が取り戻そうとする点だ。たとえば津波被災のために人が住まなくなった低地部で、被災前と変わらず湧水を使おうとする実践がみられる。しかし個人の日常生活は地域環境と相互依存関係にあり、被災等によって隣人が亡くなっていたり、災後の復興計画によって物理的改変が生じていたりなど、地域環境自体が大きく変化しているために、取り戻すのは極めて困難だ。その困難さは、非当事者が指摘するまでもなく、当事者が一番良くわかっている。にもかかわらず、日常を取り戻す実践が止むことはない。それは非当事者の目にはきわめて不合理に映る。だが当事者にとっては、そうした実践に取り組んでいる状態そのものに掛け替えのない意味がある。そのように理解すべきあり、計画策定者を含む非当事者から不合理にみえるからといって軽んじるべきではない。
 二つ目は、時間経過によって荒れていく空間との付き合い方を模索するという点だ。被災前の暮らしは、住むこと自体が家屋の老朽化を緩和し、地域での日常的な共同生活に草刈りが組み込まれているなど、自ずと環境の維持管理につながっていた。被災後は、自分のみならず周辺も含めて住まない世帯が生じることで、暮らすための手段だった手入れが目的化した。そのような状況への対応として、居住者のいない敷地において所有者ではない他者が手入れをする方法が考案され、手入れをする範囲も変化している。こうした試行は、自分たちが暮らす生活環境のあり方を、自分たちで可変的に決定している自律的な調整だといえる。調整によって、自分たちが暮らす生活環境のあり方を固定化するのではなく、状況に応じて可変させるからこそ、自律性を保つことができる。そうした可変的な状態は、非当事者からすると脆弱で将来を考えない無責任さにみえるかもしれない。しかし、自分たちの能力の範囲で状況に応答しようとする態度は当事者の責任(responsibility)だといえよう。
 三つ目は、被災前にはなかった魅力的な暮らし方を実現させようという点だ。一見すると、新たな産業の創出を掲げる復興事業と共通にみえるが、実践の当事者にとって魅力があるか否かが決定的に異なる。被災前にはなかった魅力的な暮らし方は、しかし被災前の暮らしの延長上にある。原発被災地域で増加した空き地をグラウンドゴルフ場にしたり、周辺住民がいなくなったけれどもピザ釜を作ったりという実践は、美しい海辺や山間で暮らしてきた実感がなければ生じない。だから、こうした実践は、周辺環境のコンテクストに併せて、自分自身の技術・能力に基づき、必要に応じて周辺住民や行政の助けを得て実施され、この点でも復興計画・事業とは異なる。さらに、行政が復興計画によって対応すべき生活必需品ではなく、趣味の範疇と位置付けられ軽んじられる傾向もあるといえよう。しかし暮らしとはそのようなものを含む。

3.今とは異なる災後のあり方
 災後の現場に身を置けば、当事者による自然的実践が展開されていることがわかる。それらは様々な条件のもとで生成される多くの関係の結果として生じており、暮らしそのものであり、計画を超えたものだ。この計画を超えた行為の束を「復原」と呼ぶならば、それこそが現場に根差しつつある災後のあり方を示唆しており、決して計画によって根こぎにされるべきではない。被災現場の自然的実践と当事者性を尊重するためには「復興」という理念を棄却すべきだ。

窪田亜矢・田中正人・石山千代・益邑明伸

2022年8月