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研究助成

成果報告

外国人若手研究者による社会と文化に関する個人研究助成(サントリーフェローシップ)

2021年度

古代日本漢文学における音声と書記の往還――〈訓読〉の美と文字化について――

国文学研究資料館情報事業センター国際連携部 機関研究員
具 惠珠

 本研究は、訓読による漢詩文の音声化とその享受が盛行した10世紀前後の日本の時代相を視野に入れ、訓読が漢文学の実作と享受にいかなる美的指向を促したのか分析することを目的とする。
 訓読は、漢字漢文を運用する方法として言語を異にする東アジアの諸地域で広く行われていた。古代日本では7世紀末頃には文単位での訓読が行われていたと推定され、8世紀末以降の訓点資料が多く現存する。日本語に即した訓読体系は、日本語を基にした漢文の読み書きを方法化しただけでなく、日本語の書記意識と書記形態それ自体を歴史的に支えた一つの重要な基盤として評価されるが、訓読を前提として書かれた日本の漢文テクストにおける日本語の要素の現れについては、従来、いわゆる正格漢文の古典中国語文には見られない用字・語彙・語法などを中心に、和習(和臭)という破格の観点から把握されてきた。
 しかし、日本語本位の知的情的操作が漢文テクストに破格としてのみ反映されていたとは考えられない。詩・賦・駢儷文(序・願文・表・申文など)といった漢文学は律令国家の公的文学として古代日本社会でも制作・享受され、極めて高い文化的価値を有していたが、韻律美を不可欠の要素とするそれらの作品は、日本で漢音直読が廃れていった9世紀末10世紀初頭以降、訓読で披露され、吟詠されるようになった。漢詩文の享受をめぐって訓読での聴覚的な美感が重視される風潮は、その実作にも少なからぬ影響を及ぼしていたと想定されるのであり、破格の有無を問わず訓読での美感を意識した漢詩文の書記は、日本語の音声の文字化という位相で捉えることができる。
 以上の見地に立ち、10世紀前後の平安時代の漢文学を分析の対象として、歴史資料・仮名散文作品などを参照しながら考察を進めた結果、次の知見が得られた(便宜上、訓読で漢文を読み上げた際の音声については〈訓読〉と示した)。
 第一に、訓読の普及に伴った吟詠の広がりが平安貴族社会における詩文享受の場の拡張と重層化を促したことについて。漢詩文の美感を感受する方法として行われた吟詠は、一方で音声のみを媒介に詩文享受の場を成立させ、文字通りに人口に膾炙する佳篇としての価値を作品に付与する働きをなしていた。訓読主体の詩文享受は平安時代における当意即妙な漢詩文の暗誦の盛行の前提となると同時に、漢詩文の〈訓読〉が平安貴族社会の様々な言語空間に位置づけられていく端緒となった。
 第二に、文字テクストから自立した漢詩文の〈訓読〉が再び文字化される様相について。仮名散文における漢詩文の明示的な引用は概ね人物の口吟による〈訓読〉の形態でなされる。すなわち漢文書記を介さずに〈訓読〉それ自体が漢詩文の表象を喚起するものとして仮名文で書きとめられるのであり、その過程で漢文書記の規範に反する原作の改変が行われることもある。また、漢詩文集の書写で〈訓読〉が異文発生の要因となった事例があるが、中には平安時代に漢詩のモデルとして尊重されていた中唐・白居易(772-846)の作品も含まれており、〈訓読〉の美感に沿いながらも破格を伴わない改変が確認される。より美的な〈訓読〉を意図した本文改変の実例から、日本語の音声を漢文書記に反映させる姿勢を読み取ることができる。
 第三に、平安朝漢文学の実作に認められる〈訓読〉の美的要素について。平安朝の作品が語句や語法を襲用している中国の作品と書記の外形面では相似を示しつつも〈訓読〉では異なるリズムを生む事例において、名詞の多用・体言止め・畳対が〈訓読〉の相違の支点となっていることが判明した。これら3点は、訓法の違いに左右されることなく〈訓読〉の美感を構成する要素として平安朝の作品に広く看取される。
 第四に、平安朝漢文学の〈訓読〉の語調とリズムについて。中世の『平家物語』『太平記』など和漢混淆文で書かれた作品の名調子は平安朝漢文学の〈訓読〉のリズムを彷彿とさせており、実際に作中には平安朝の佳句を訓読で引用する箇所も散見する。しかし平安朝漢文学の〈訓読〉の格調やリズムは、単に創作の結果として偶然に生み出され、和漢混淆文の書記体に取り込まれる過程で発見されたのではない。すでにそのような音声的美感を内包するものとして漢文学は創作されたのであり、平安時代の訓読による詩文享受の盛行が、その美的音声と書記の往還を推し進めていた。
 上述した研究成果については2022年10月8、9日に開催された日本中国学会第74回大会にて発表しており、同学会機関誌『日本中国学会報』第75集(2023年秋刊行)に論文が掲載される予定である。
 本研究では、古代日本漢文学が一つの表現圏域として自律的な原理を獲得しつつ展開していく動態を訓読の視角から照射したが、今後はさらに年中行事や季節意識といった別の角度からの分析を重ねて古代日本漢文学の豊かな特質に迫りたい。

 

2023年5月

現職:東京大学大学院人文社会系研究科博士課程