成果報告
2021年度
戦前日本におけるペルシア美術工芸――コレクション・展示・研究をめぐるネットワーク
- 東京大学大学院総合文化研究科 博士後期課程
- モハッラミプール ザヘラ
研究の背景と目的
本研究の目的は、建築家・建築史家の伊東忠太(1867–1954)を筆頭とする建築家、美術史家、考古学者、美術商が行ったペルシア美術工芸品の蒐集、日本国内での展示および彼らの研究を包括的に分析し、戦前日本におけるペルシア美術工芸品の受容の諸相と、そこから浮かび上がってくる当時のペルシア観を明らかにすることである。
ペルシア美術は、抽象的で流動的な概念であり、近年の欧米における美術史研究においては、この概念が形成された過程を学者、コレクターや美術商の活動に着目しながら明らかにする傾向が見られる。一方で、戦前日本におけるペルシア美術の受容をこのような観点から考察した研究はこれまでに見受けられない。そこで本研究では、ペルシア美術を含む展覧会図録や図版集、美術史・建築史の教科書や概説書、学者の論文などを調査し、日本で展開されたペルシア美術に係わる言説を徹底的に蒐集して分析することを目指す。また、ペルシア美術に関する欧米の言説がどのような人物や文献を通して日本で受容されたのか、日本と欧米のペルシア観がどのように異なるのか、ペルシア美術をめぐって欧米と日本の研究者の間にどのような交流があったのかを比較文化史的な視野から探るのも本研究の課題となる。
研究成果・研究で得られた知見
本研究では、とりわけサーサーン朝ペルシア(224–651)の美術の認識に焦点を当てた。20世紀初頭の日本におけるペルシア美術に係わる言説では、サーサーン朝の美術が日本美術に与えた影響についての言及がしばしば見受けられるが、この認識の形成過程については、これまであまり注目されてこなかった。19世紀末の日本において、サーサーン朝との関連で注目された日本の美術作品は、「四騎獅子狩文錦」である。現在、国宝・重要文化財に指定されている「四騎獅子狩文錦」は、奈良・法隆寺に所蔵されており、当時は「四天王紋錦之旗」という名称で知られていた。このテキスタイルの文様には、数珠のように連なった珠の円(連珠円文)の中に、獅子に向かって弓矢を放つ4人の騎士の姿が真中の樹木を中心として左右対称に描かれている。この文様について、日本で初めて論文を発表したのは、歴史学者の三宅米吉(1860–1929)である。三宅は、1888年7月に『文』第1巻1号に掲載した論文「法隆寺所蔵四天王紋錦旗」においてこの文様にアッシリアの影響が見られると指摘したものの、その4年後に『東洋学芸雑誌』第133号に発表した論文「四天王紋錦旗」では、アッシリアをペルシアに訂正した。こうして、三宅の論文が1892年に世に出てから、この文様の起源がペルシアにあるという説が日本で知られることになった。
伊東忠太の関連資料を精査することにより、伊東が1898年に学位請求論文として東京大学に提出した「法隆寺建築論」(『東京帝国大学紀要 工学』第1号)において「四騎獅子狩文錦」の文様を扱い、その複製図を論文の図版集に掲載していたことが判明した。そして、伊東の論文が日本美術とサーサーン朝の関係を探ろうとしたギメ美術館学芸員のエミール・デエEmile Deshayesによって引用されたこと、さらには、ウィーン学派の美術史家ヨーゼフ・シュトスゴフスキーJosef Strzygowski(1862–1941)がデエの論考を参照し、伊東に言及していることが分った。伊東が「四騎獅子狩文錦」に関心を示した時期は、ヨーロッパにおけるサーサーン朝の研究が活性化した時期と重なっており、彼の「法隆寺建築論」は、サーサーン朝の美術史の研究に国際的に貢献することになったといえる。このように、言語横断的な資料調査によって、各国の学者が参照した文献を詳細に確認し、日本とヨーロッパのサーサーン朝美術の研究の連動と学者間の交流の諸相を明らかにできたのは、本研究の重要な成果である。さらに、以上の成果を踏まえて、博士論文を完成させることができたのも本年度の研究成果として挙げられる。
今後の課題・見通し
今後の課題としては、分析対象と扱う時期をさらに広げていくことを目指している。とりわけ、サーサーン朝の美術の研究が20世紀初頭に発展したことは、中央アジアでの探検が盛んに行われたこととも関係しているだろう。日本からは、大谷探検隊が中央アジア探検に加わり、彼らが蒐集したテキスタイルなどが伊東忠太のような建築史家や当時の美術史家たちの注目の的となっていた。この時期の日本におけるペルシア観の形成を包括的に捉えるには、日本人が中央アジアや「西域」に向けた関心にも目を向ける必要がある。
2023年5月
現職:東洋大学非常勤講師