成果報告
2021年度
戦間期~戦時の帝国日本における農業と政治−帝国経営の政治経済史−
- 東京大学大学院総合文化研究科 博士後期課程
- 村瀬 啓
【研究の目的】
本研究は、戦間期の日本の帝国経済運営の政治過程を検討するものである。その際、朝鮮総督府や満洲国といった帝国内の出先機関(「外地政府」と呼ぶ)を、独自の権力基盤と利害及び構想を有した自律的政治主体と捉え、それらと内地政府との越境的・双方向的な政策調整に着目する。
第一次大戦後の日本は、産業の急速な進展とその反動としての慢性的な不況に見舞われる一方で、毎年60〜70万人ずつ増加する人口を抱え、それをいかに吸収・移転・扶養するかという問題(「人口食糧問題」)に直面した。1929年の世界恐慌後、世界経済のブロック化が進行すると、日本も自らの勢力圏でブロック経済を建設する必要に迫られる。
戦間期の日本が直面した上記の経済問題は、当時の政治行政において深刻な課題と認識されると同時に、いずれも植民地や勢力圏をも一丸とした広域的な対応を要請する点にその特色があった。実際、人口食糧問題は、食糧不足を植民地開発による生産増加で、過剰人口を海外や朝鮮・満蒙といった植民地・勢力圏への移植民で、それぞれ解決することが模索されていた。また恐慌克服のためには、日本本国(内地)に植民地から安価で流入する物品の流通を統制し、帝国内の経済摩擦を防ぐような分業の調整が必要だった。
しかし、上記の広域的対応の前提となる内外地政府の協調は、日本帝国において必ずしも容易ではなかった。例えば帝国内で最大の植民地であった朝鮮では、朝鮮総督があらゆる分野の行政権を属地的に掌握しており、内地の首相や各省大臣による監督権限は制度化されていなかった。そのため、朝鮮総督府や満州国が遂行する産業開発と内地の経済政策の衝突を、事前に避けるのは困難であった。
このように、内部に自律的な外地政府を抱えた戦間期の日本が、どのように広域的な帝国経済運営を行ったか。内地政府は自律的な外地政府とどのように利害を調整していったか。これを検討するのが、本研究の目的である。
【本研究の内容】
上記の目的を念頭に置きつつ、助成2年目は1920年代初頭における朝鮮産業開発政策の形成過程の検討を進めた。
三・一独立運動を受けた朝鮮統治の転換(「文化政治」の開始)に伴い、それまでの朝鮮開発政策の刷新もまた模索された。米穀の増産政策(産米増殖計画)を中核とする新たな朝鮮産業政策の主眼は、①米穀増収によって食糧不足の解消を緩和すると同時に外国米を防遏して国際収支の改善にも寄与する、②朝鮮人間に開発の受益層を創出することで統治を安定させる、の2つにあると考えられてきた。
こうした先行研究の認識には本研究も同意するところである。ただ、第一次大戦後の朝鮮開発の目的が、それが果たした機能の観点から、あるいはやや抽象的な次元で、独立運動への対応という側面を重視して把握される傾向にある。また開発政策が本格化した1920年代半ば以降(産米増殖計画更新計画など)に、関心が偏っている。その結果、①帝国経営上の具体的な課題(20年代であれば人口食糧問題など)と朝鮮開発の関係、②初期の開発政策の形成過程とそこにおける内地政府・朝鮮総督府など関連する諸政治主体の動向や温度差、③先行する時期の大陸政策との関連、が十分具体的に検討されていない。
そこで、従来はさほど重視されてこなかった第一次大戦終結(朝鮮側では三・一独立運動)前後の時期に焦点を当て、当該期の米価騰貴、朝鮮統治及び大陸政策の見直しといった変動の中で朝鮮開発をめぐり、いかなる構想と運動が展開・交錯して朝鮮開発政策を形作っていくかを検討した。
検討の結果、当該期の朝鮮開発政策につき、以下のことがわかった。「文化政治」開始当初、産業開発政策については内地政府や総督府といった当局者とは別の主体によって開発政策が構想された。それに朝鮮総督府が乗って政策を具体化していった結果、従来の朝鮮と満州を一体的に開発する大陸政策を見直し、朝鮮そのものを一体的に開発する構想に発展した。かくして具体化された朝鮮開発政策は、朝鮮を食糧問題には寄与するが人口問題には貢献しない植民地として定位するもので、内地の帝国経営と微妙な齟齬を生むことになった。
1920年代の朝鮮開発をその形成過程から具体的に検討すると、それは帝国経営や国策への従属だけでなく、朝鮮独自の利害の形成と固定化の過程としても理解することが出来る。
2023年5月