成果報告
2020年度
公教育とイスラームの〈相互浸透〉:ムスリム私立学校における市民権形成の英仏比較
- フランス国立社会科学高等研究院レイモン・アロン社会学政治学研究センター 契約博士課程学生
- 山本 繭子
ヨーロッパにおけるイスラームをめぐる政治状況は近年新たな様相を呈している。2000年代から2010年代にかけて増加したイスラーム過激主義によるテロ事件を経て、2010年代後半から、ヨーロッパ諸国ではイスラームを社会に「統合」させるための、新たな次元のセキュリティー・ポリティクスが展開されている。イギリスでは2015年、従来施行されていた過激思想を「予防する」ためのテロ対策から、それらに「対抗する」ため一歩踏み込んだ政策へと転換が見られ、そこでは「原理的なイギリス的価値」が強調されている。フランスでは、国内のイスラームに関する政策改革を目指したマクロン政権が、共和国に敵対するイスラーム主義者を取り締まるための「イスラーム分離主義法」を2021年に成立させ、大きな社会的・政治的余波を生んだ。
これらの議論において興味深いのは、イスラームに象徴されるとみなされる「過激主義」あるいは「分離主義」といった外部を通じて、国家が拠り所とする公的価値観が再定義・強化されていることである。そして、その議論の中で、「学校」という空間こそが、子どもたちを「過激的思考」から守るための防波堤、言い換えれば「市民性」を教え強化する場として捉えられ、上記した政治の中で重要な役割を担うこととなっている。かつてデュルケームは、未来の共和国市民を形成する場として成立した公立学校を公的な道徳観念を規制する場として捉えていたが(『道徳教育論』)、今日に至り、学校空間は以前にもまして、公教育を通じて教え込まれる公的規範と、個人的価値観とを調整する場としての役割を担うようになってきているのである。
本研究は、以上のような背景において、イスラーム的教育ビジョンのもとに学校運営を行いながら公教育を行うムスリム私立学校が、どのように公的規範と宗教的価値観を、一つの空間内で子供達に教えているのかを、「学校」という場に着目して理解することを目的とした。とりわけ本研究では、エスノグラフィー的手法を通じて、アクターたちの学校空間内における実践の過程を描き出すこと、そしてそれらを「相互浸透」(ニルフェール・ギョレ)という視点から描くことを目指した。「相互浸透」とは、ヨーロッパ・ネイティブとして生まれ育った移民第二世代以降のムスリム市民たちと、西洋社会とのあいだで繰り広げられる、時に摩擦を生みながらも、それを機になされる政治的対話を通して相互理解を深めていく漸次的な過程を意味する。移民の「統合」というと、しばしば政策面や統合されているか否かという結果論の側面から語られることが多いが、本研究はアクターたちが日々葛藤・衝突を抱えながらどのように社会を形成しつつあるのかという、いわば下からの統合、そして日常の実践に着目した。
助成期間中は、感染症拡大による各種規制が断続的に継続した結果、当初の研究計画に大幅な影響が生じた。助成年度前半は、予定していた英・オックスフォード大付属Maison Française d’Oxfordでの在外研究を行った。ロックダウンの影響により、計画していたムスリム学校内部での調査は困難であったが、学校外部で、学校関係者・モスク関係者・保護者などにインタビューを行うことができた。助成年度後半は、フランスでの調査を行い、ストラスブール、マルセイユまたパリ郊外に位置するムスリム学校での参与観察およびインタビューを行った。
現在までの調査の結果、次のことが確認された。まず調査した学校では、イスラームの宗教的倫理・実践を可能とする環境が整備されている一方で、公教育カリキュラムが公立学校同様に教えられていること、さらには、地域およびヨーロッパの(キリスト教)文化遺産を学ぶ校外学習、また市民性意識を促す子ども向け地域イベントへの参加や授業の実践など、社会・地域コミュニティへの市民的参加を志向する独自の活動が各校において観察された。さらに、教育実践の次元においては、私立学校という限定的空間が保持されていることにより、子どもたちの宗教的・文化的・教育資本に適した表現を通じて公教育が教えられていることや、時に過度な宗教的実践を求める保護者に対しても、学校側がイスラーム的価値を尊重しつつ、世俗的・公的規範の理解を促すことで、それら文化コードの翻訳が行われていることが観察された。このように、ムスリム学校はイスラーム的価値と公的・世俗的規範の調整・調停を行なっているということができ、ここにある種の「相互浸透」を見ることができるのではないかと考える。
今後の課題は、調査が遅れているイギリスでの調査結果を上記の知見とすり合わせることである。イギリスのフィールドでどのようにイスラームの言語を通して公教育プログラムが教えられているのかに着目しながら今後の調査・分析を進めたい。
2022年5月