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研究助成

成果報告

若手研究者のためのチャレンジ研究助成

2020年度

ローマ帝政前期のギリシア人による言論空間の形成をめぐる研究

京都大学大学院文学研究科 非常勤講師
増永 理考

 本研究は、1~3世紀のローマ帝国下におけるギリシア諸都市で活発に展開された弁論活動を、発展しゆく都市空間という現実的文脈に位置づけることで、当該期ギリシア都市社会の実像およびその動態に迫るものである。
 地中海一帯を掌中に収めたローマ帝国、その東半には、文化的にはローマ人に影響を与えたギリシア人の世界が、依然、都市(ポリス)を社会的基盤としつつ存続していた。このギリシア諸都市をめぐっては、20世紀末にかけて、特に、帝政前期に相当する1~3世紀のあいだ、ローマへの従属により衰退に向かった、と論じられてきたが、近年では、遺跡の発掘調査による史料の増加などを通じて、ローマ帝国支配下でもなお、ギリシア都市は一定の活力や自律性を保持していたと主張されるようになっている。
 このように近年強調されつつあるギリシア都市の活力を例証する一つが、都市化の進展である。特に小アジア(現トルコ)を中心に、1~3世紀のギリシア諸都市は、平和的な状況や富裕な有力者の財力をもとに、その都市景観を大きく変遷させていった。
 ローマ帝政期のギリシア人社会における都市空間にとって重要な意義を有したのは、なにもその建造物だけではなかった。この時期の社会をさらに特徴づける現象として、多数のギリシア知識人が、都市の称賛演説や紛争の仲裁演説、さらには話者の技術を誇示する演示弁論などを盛んに披露していたことが知られる。研究者によって「第二次ソフィスト運動」と呼ばれるこれら弁論活動では、しばしば、前5~前4世紀の古典期に用いられたギリシア語を範としたり、この古典期の著作家の作品が多々参照されたりした。そして注目すべきは、こうした弁論活動は、前時代に比べ、あらゆる公的な都市空間を巻き込んで実施されていたことである。この時期の弁論は、法廷弁論や議会弁論などで希求された実利というよりは、むしろ修辞的技能を重視する側面があったため、各弁論に則した場所が、弁論の出来をも左右する変数として選択され、それゆえに弁論の空間は多様化した。
 ローマ帝政期、弁論が展開される都市空間自体は大きな変遷を経験しているが、それにもかかわらず、弁論家のテクストは、依然、文学史的あるいは思想史的研究の中で取り上げられることが多く、それらを都市社会ないし都市空間という動態的な歴史的文脈に位置づける作業は十分なされていない。この論点は、先行研究で全く焦点が当てられてこなかったわけではないが、弁論が実施された空間自体の特性が述べられるにとどまっている。
 以上を踏まえると、次のような課題が浮かび上がってくる。ローマ帝政期に盛んとなった弁論は、擬古的な傾向を有するとはいえ、それが展開される現実の都市空間も重要な役割を担っていた以上、そうした実社会の影響も多分に受けているのではないだろうか。そして、問題となる時期において、こうした空間的文脈は動態的であったことから、弁論への影響も一様ではなかったはずである。ローマ帝政期のギリシア都市を衰退とみなす理解は近年覆されつつあるが、依然、少なくとも帝政前期は「平和な時代」としてひと括りに、半ば静態的な議論に終止するきらいがある。そうした状況に対して、本研究は、この時代におけるギリシア都市の動態を解明するという点で重要な貢献の一端をなす。
 本研究では、ギリシア人の弁論活動が最盛期を迎える2世紀に活躍したアイリオス・アリステイデスの弁論史料を事例として分析を進めた。特に、彼が残した弁論のうち、『キュジコスにおける神殿をめぐる祭典演説』については、その開催場所として、一般の人々が多数集う劇場、そして比較的少数の有力者が一堂に会する議事堂の2箇所が想定され、いまだ確定をみていないという問題を有する。この問題を解決するべく、当該弁論史料を、内容的に類似し、開催場所の空間が明らかになっている他のアリステイデスによる弁論と比較した上で、弁論の空間を意識したと思われる古典引用のレトリックについて分析した。その結果、蓋然性の高い当該弁論の空間として、より政治性を帯びた議事堂を同定した。
 本研究にて、『キュジコスにおける神殿をめぐる祭典演説』の空間が明らかにされたことにより、アリステイデスの政治家としての側面がより強調されることとなった。とりわけ、彼は弁論中で同胞有力者による大衆の統治強化をしばしば主張しているが、このことは翻って、当該期、従来想定されてきた有力者による都市統治体制が実際は脆弱なものであったことをうかがわせる。このように、「第二次ソフィスト運動」期の弁論を空間との関連で検討することの重要性が示されたのだが、今回の研究期間では、都市空間の変遷を踏まえた動態的な議論にまでは達することができなかった。コロナ禍によって断念せざるを得なかった海外遺跡調査などを通じて、さらに議論を深めていきたい。

2022年5月

現職:京都大学大学院文学研究科 人文学連携研究者