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研究助成

成果報告

若手研究者のためのチャレンジ研究助成

2020年度

モノとしての住宅と公共性:現代社会主義制下のハノイにおける公共住宅の物質的変容

トロント大学人類学科 博士課程
藤田 高成

 本研究は、ベトナム社会主義共和国の首都ハノイにおける集合住宅をその物質的側面から捉え、集合住宅の物質的変容が都市空間の公共性の発展にどのような役割を果たすのかを民族誌的な手法で明らかにしようとする。新型コロナウィルス感染症の影響により研究調査の開始が遅延したため、以下の報告は暫定的なものとして提出したい。
 研究対象の集合住宅は、社会主義政策のもと1950年代~1980年代に建設され、現在のハノイに約1,500棟あると言われる(以下「集団住宅」と称す)。集団住宅の住民は盛んに増築行為を繰り返し、住空間が大幅に拡張されてきた(数倍まで拡張された住戸も少なくない)。集団住宅は社会主義的な都市づくりを象徴する事業であったため、元来は高度に計画的・設計的な建物群であったが、一方で1990年代以降は住戸が私有され、当初の設計も増築行為などによって大幅に塗り替えられてきた。また近年では、集団住宅は買価および賃料が比較的低く抑えられることから若い世代の核家族や学生などによる入居が増えているという点や、一部の建築分野の専門家からは文化遺産としての価値を認められ始めているという点など、新たな展開がある。集団住宅は古い住宅ストックとして過去の遺物と見做されることも多い一方、時代の転換ごとにハノイという都市社会の新たな潮流の舞台となってきたのであり、都市社会の「活力」の体現であるとも言える。
 集団住宅は、複数の意味において「公共的」な都市インフラであるといえる。ハノイ市は2000年代から集団住宅の建替えを推進してきたが、複雑な理由により遅々として進んでいない。老朽化し、また著しい増築行為や共有部分の占有により建築構造上の問題があると指摘される集団住宅を、市の都市計画に適合した安全な住宅ストックへと作り変えていくことは、市政にとって喫緊かつ困難な課題である。また、住民自身のイニシアチブによって集団住宅が変容するという局面も多く、この際にも、集団住宅の「公共性」が焦点となる。例えば、集団住宅を舞台として実施されるボランティアベースの住環境改善プロジェクトは、しばしば「公共空間」というキーワードを用い、集団住宅を公共的なものとして捉えることが多い。広範な増築行為もまた、公共空間や公共性の高い構造物を私的に占有する行為だからこそ問題になるのであり、これも裏を返せば公共性の問題である。
 集団住宅の再開発という社会問題は、日本を含む多くの国で建てられた集合住宅(いわゆる団地)が置かれている現状と一見して軌を一にするようだが、ベトナムの文化社会に根ざす重要な独自性が多く存在している。例えば、日本を含む他国において、ハノイの集団住宅ほどに極端な増築が広範に観察される場所はあるだろうか。ハノイの集団住宅における増築行為は、各戸の住空間を何倍にも拡張するほどの規模を有する一方で、それは正規の権利関係を伴わずに実施されてきた。そのため、建替えを推進する市政またはディベロッパーが現在の住民に立退きを求め補償を提示する際には、法的に定義される利害と住民から見た実際上の利害とが大きく乖離し、補償内容の合意が困難となる。この問題を掘り下げると、現代ベトナムの文化社会の様々な局面で観察される独特な「柔軟性」と「活力」が重要な役割を果たしていることが分かる。例えば、増築行為が広範に黙認されたことには行政管理の「柔軟性」が関係しているし、また市政の遅々たる再開発とは対照的に住民主体の住環境プロジェクトが活発なことには、住民の「活力」が関係している。
 本研究は、このような意味でのベトナムらしい「柔軟性」と「活力」に着目し、これを、集団住宅の建築的形態およびそれにまつわる行政と住民の活動を切り口として分析する。それにより、そのような「柔軟性」と「活力」がハノイにおいてどのように実際上の「公共性」を形作っているのかを考察する。従来の社会科学において正面から扱われることの少なかった建築的形態という都市社会の要素を分析の中心に据え、建築学と社会科学(人類学)の架橋を試みる。またこれにより、社会科学にて伝統的に扱われてきた「公共性」の概念を押し広げ、建物のようなモノ(things)が「公共性」にとって重要な契機であると提唱することを試みる。
 このような理論的見通しのもと、本研究ではハノイの集団住宅に関する建築、行政、住民活動について民族誌的な調査を行う。どのような建築的形態や、建築的形態と人間社会とのどのような関係性が、都市社会にとって「公共的」なものたり得るのだろうか。このような問いを通じて、本研究は、現代ベトナムにおける都市の社会文化に関する有意義な研究たることを目指すと同時に、人類学に対して建築学を、また建築学に対して人類学を、それぞれ不可欠なものとして接続することを目指す。

2022年5月