成果報告
2020年度
冷戦時代の中央ヨーロッパにおける「地下大学」:証言と資料の多様性
- 中央ヨーロッパ大学歴史学部 博士後期課程
- 中井 杏奈
1. 研究の目的・意義
第二次大戦後、社会主義陣営に組み込まれたチェコスロバキアやポーランドといった国では、政治・社会制度における「ソヴィエト化」がすすみ、高等教育・研究機関の性質も、東西冷戦の対立構造を受け、イデオロギー的性質をもつようになった。とりわけ、哲学をはじめとする人文・社会科学ではこうした思想的影響が顕著となり、新たな学問様式にそぐわないという理由で教育や研究の場から追われた学者も少なくなかった。こうした人々が大学の外で、自主的にはじめた「地下」セミナーの歴史を描くこと、その際に、こうした事象の歴史的記録がどのように文書化され保存されていくのかといった視点を交えて考察することが、本研究の目的である。
「地下大学」や「彷徨える大学」といった名称でも呼ばれる「地下」の学術活動は、特に1960年代以降の社会変革のなかで、異なる政治のありかた、そして自発的な運動のありかたを目指した知識人や学生の知的な受け皿となっていったが、その自主的な性質から、明確な記録が残されていないものも多い。活動を支援した西欧諸国の諸団体・個人のメモランダムや、参加者の残した個人的な記録や書簡といった資料は、まさに現在、同地域の図書館やアーカイブズといった研究機関が十分に整備されつつあり、それに伴い研究への利用が可能となっている。同時に、中東欧地域の共産主義崩壊から30年近くを経て、「社会主義」やかつての反体制派運動(「異論派」運動)をめぐる人々の歴史認識は変化しつつあり、歴史資料をとりまく環境の変化も著しい。このような状況に即し、本研究は、史料を用いた歴史叙述と資料学の重層的な関係を意識しつつ、史料の整備がいかに史実の解釈にも本質的に影響しうるのかを示すことで、歴史学と資料学の相互的な協働のありかたに言及した点に意義を有する。
2. 研究から得られた知見・成果
助成金受給対象期間の調査を通じて、「地下」セミナーに関連するオーラルヒストリーの研究をすすめることができた。そこで得られた知見は、以下の二点にまとめられる。
(1)ポーランドのワルシャワにおける「地下」セミナーのひとつとして、ニューヨークの研究機関から支援を受けた「デモクラシー・セミナー」の存在が挙げられる。デモクラシー・セミナーは、チェコスロバキアやハンガリーからも参加者を募り、民主主義と全体主義という対立する政治体制に関する文献の検討を行う場であった。この活動は、1989年以降も続き、エストニアやブルガリアといった国にも波及していった。
(2)1980年代の「連帯」運動の中心となったバルト海沿岸のグダニスクの「欧州「連帯」センター(博物館・図書館)」では、現在でも、ポーランドの反共産主義運動のみならず、中東欧地域の他の国々の資料についても常時収集を行なっている。特に1980年代のポーランドとハンガリーの「連帯」運動を通じたつながりについて、ポスターや切手のコレクションを確認した。
また、助成金を用いて、過去5〜10年の間に出版された、社会主義時代の大学や学術環境をめぐる研究成果を概観することができた。社会主義時代の学術をとりまく研究は、2010年から2020年のあいだに特に進展し、各国の事例をまとめたアーカイブ資料の出版も相次いだ。また、社会学、哲学あるいは古典学など、各専門分野を対象とする比較研究もさかんとなり、これらの研究には当時の研究機関関係者らの回想が多く含まれるものとなった。近年は地方都市と地方の大学をめぐる研究が活発化しており、地域の歴史を反映してか、市民が主体となって行う資料収集が国や自治体の活動の補完的役割を担っている。
こうして得た知見の一部(特に上記(1))を投稿論文としてまとめた他、下記にも課題として述べている「記録」と「記憶」問題に関する論文集の編纂に携わった。
3. 今後の課題・見通し
この期間の研究から、二つの課題が浮かび上がった。ひとつは、「地下」セミナーをめぐる研究に関して、個別の参加者の声から、どのようにセミナーのような集団の活動の全体像を構成するかという問題である。もうひとつは、「記録」と「記憶」の問題である。現在、同分野では記録から構成された歴史が、保守化の進む中東欧地域の「記憶の政治」と深く結びついていることが問題視されており、収集活動や資料公開にも時の政治の影響が皆無とは言い難い。こうした現状について理解を深め、「記録」と「記憶」の問題を歴史学の枠組みの中で、理論的に考察していく必要がある。