成果報告
2020年度
戦後日本の出入国管理政策の変遷 ─難民保護の政策形成過程の分析より
- 東京大学大学院総合文化研究科 博士後期課程
- 土田 千愛
研究の動機・目的
日本の難民認定率が、例年1.0%を下回るほど低いことが国内外にかかわらず、人々の関心を集めている。これまで日本の難民研究は、1981年に日本が「難民の地位に関する条約(以下、難民条約)」に加入した後の難民政策に分析の主眼を置き、法解釈と政策評価を重視し、人権的な観点から政策における問題点を指摘してきた。そして、「難民鎖国」と言われるほど、日本の難民政策が閉鎖的になる理由を、「外圧」による影響や「単一民族国家」思想などに基づいて説明してきた。しかし、そもそも日本の難民政策は、どのようにして形成されてきたのだろうか。
本研究は、難民政策の形成過程に着目し、日本政府がどのように難民の保護を検討し、難民政策を形成してきたのかを明らかにし、戦後日本の難民政策に一貫して通じている軸を探り、日本の難民政策を再解釈することを目的とする。本研究は、第二次世界大戦後から平成22(2010)年までという長期的な時間軸を設定し、法学を中心に発展してきた日本の難民研究に対し、政治学的な視点から分析を試みるものである。
研究成果
本研究が明らかにしたのは、第二次世界大戦後、難民問題が外交に関する問題、あるいは安全保障に関する問題として顕在化するたびに、日本政府が外交や安全保障の側面から国益を再解釈し、能動的かつ戦略的に難民政策の形成と転換を図り、国際・国内秩序を維持してきたという政治過程である。具体的には、次の通りである。
まず、1960年代から1970年代、亡命事件や国際的な難民保護の潮流を受け、野党議員や弁護士、市民組織は、難民条約への加入と難民保護に関する国内法の制定を求めた。しかし、日本政府は、冷戦期の周辺諸国の政情不安や日韓関係の不安定さを懸念し、難民政策を持たないことを戦略的に選択した。ただし、これは、日本政府に、難民政策を形成するという意思がなかったことを意味するものではない。日本政府は、難民条約への加入とそれに伴う国内法の整備について、1960年代からすでに検討を進めていた。また、1970年代には、できるだけ多くの国際人権条約に加入することを目指していた。1975年に始まるインドシナ難民の到来は、この動きを加速させる。そして、難民条約への加入に、日本の国際協力の拡充と在留外国人など国内の人権の進展という意義を見出した日本政府は、1981年に難民条約に加入したのである。なお、このとき、日本政府は、難民政策に難民認定申請者に関する規定を設けず、運用において対応しようと考えていた。
その難民政策が変化するのが2000年代初頭である。2002年に瀋陽総領事館事件が政治化すると、与野党ともに人権外交を掲げる日本の外交的なイメージダウンを懸念した。また、新たに、瀋陽総領事館事件と同日にあった在中国日本国大使の発言が問題になると、野党議員だけでなく、与党議員も日本の難民政策の見直しの必要性を認識し、在留資格のない者を含む、難民認定申請者の法的地位の安定化が図られた。外交的な国益が喪失した状況において、難民政策の転換は、対外的なアピールの手段となったのである。
研究の意義
本研究の意義は、これまで受動性と閉鎖性が強調されてきた、日本の難民政策を長期的な視座から再考察し、政策形成過程に日本政府の一貫した主体性を見出したところにある。そして、本研究では、難民政策に関する日本政府の意思決定が、関連する外交問題と安全保障問題における国益の計算に左右されることを明らかにし、日本の難民研究に対し、政治学的な観点から新たな視座を提供することができた。
今後の課題
本研究の限界は、分析対象が特定の難民政策に限定されていることである。それゆえ、今後は、より包括的に難民政策を捉え、日本における難民政策を再解釈する必要がある。本研究では扱わなかったが、日本には、第三国定住プログラム、シリア難民の留学生としての受け入れ、ミャンマーの情勢の変化に伴うミャンマー出身者に対する緊急措置、ウクライナ避難民の受け入れなど、様々な難民政策がある。これらの政策にまで分析対象を拡げると、日本における難民保護というものをより体系的に解釈することが可能になる。引き続き、日本の難民保護をめぐる意思決定に着目し、分析と検討を重ねていきたい。
2022年5月
現職:東京大学地域未来社会連携研究機構 特任助教