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研究助成

成果報告

若手研究者のためのチャレンジ研究助成

2020年度

戦前期西日本地域における食文化形成と醸造家経営の相互作用 ─経営史の視点から─

立教大学経済学部 助教
田中 醇

 本研究の動機は、現代日本にまで残る全国的な食文化の差異の存在の背景を明らかにしたかった点が挙げられる。その考察のために、近世来、日本の食を支えてきた調味料、具体的には調味料供給者としての醸造業者の経営史的な分析を用いるのは効果的であると考える。醤油醸造家がどのような製品をどれだけ販売できているかという状況に応じて、各時代・各地域の消費者の嗜好を判断できることからも、供給側と消費者側双方を通じた「食文化」形成の過程を考察することができる。詳細は後述するが、以上のような分析を通じて、全国的な食文化の差異の存在が一方向的に経営側に影響を与えているわけではなく、さまざまな困難に見舞われた経営側の経営努力・醸造方針の変更などが消費者に影響を及ぼすことで、地域内における食文化を形成する側面も存在していることが明らかになってきた。以下、これまでの研究成果の要約とそれを受けた本研究の今後の展望を述べつつ、中長期的な見通し・課題・本研究の目指すところを記載する。
 まず、2022年1月に『歴史と経済』に掲載された「明治・大正期福岡県筑豊地域における醤油醸造経営の展開と地域性」を概観する。同論文では、福岡県筑豊地域における醤油醸造家である許斐家(松喜醤油)の醤油製造過程・販路展開分析を通じて、醤油醸造業と地域の関係、中でも炭鉱との関係を考察し、地域性について分析した。第一次大戦の影響によって大豆・小麦などの原材料価格が高騰し、醸造業者は醤油価格を値上げしている。福岡県の一般的な醸造家も、同様の対応を取っていた。ただし、松喜醤油はこのタイミングで、販売醤油価格を相対的に安価に設定した。醤油価格を安価に抑えるために、1石の諸味から得られる醤油量である「醤油製成率」を上昇させ、甘味料を添加することで、低価格と一定の醤油品質を保とうとした。こうした選択には、炭鉱との関係が大きく影響しており、1918年の「炭鉱米騒動」で炭鉱労働者が求めた日用品の値下げが反映されていた。また、炭鉱労働者の中でも「最上品」を需要していた層の嗜好が、甘くて粘稠性のある醤油にあったことから、松喜醤油の供給と合致することで経営の拡大に繋がったのである。すなわち、需要上層に対しては、嗜好に合ったものを、下層には価格競争力のある低価格なものを提供することで、競争優位を得て、販売石高の拡大と経営の安定を達成していたことが明らかになった。以上の分析から、従来の「最上品」嗜好を安価に再現することで、幅広い需要層に対して醤油醸造家側が地域性を形成していった可能性を指摘した。
 続いて、同じ松喜醤油を事例として、戦時期にかけての時期についての分析を行っている。その内容について「昭和戦前・戦時期の福岡県筑豊地域における醤油醸造家の経営-アミノ酸液製造に着目して-」という題で報告を行なった。従来の研究では、アミノ酸醤油とは戦時期の物資不足の時代に、醸造醤油の代替品・粗悪品として登場するものとされてきた。しかし、松喜醤油ひいては北部九州醤油市場の事例においては、30年代前半の満州事変後の原材料価格高騰などによる醤油売上高を減少契機に、30年代半ば頃からアミノ酸醤油製造が開始されたことが明らかになった。こうした醤油が消費者に受け入れられていたこともアミノ酸醤油製造開始によって、松喜醤油の売上高が急上昇していることから判明した。この背景には、先述した甘味料添加醤油が以前より市場において順調に受容されていたことが関係している。ただし、このようなアミノ酸醤油の売上好調は、戦時期に醤油とアミノ酸で統制会社が分割され、醤油醸造業者によるアミノ酸液製造が禁止されることによって終了することになる。すなわち、福岡醤油市場においては、従来流通していたアミノ酸醤油の戦時「代替品」として、通常製法の醤油が流通していたのであった。その一方で、関東市場においては、味の素社によるアミノ酸液の製造が行われており、従来の醸造醤油の「代替品」としてアミノ酸醤油が流通することになった。
 以上のような地域間での戦時経験の相違が、戦後から現代に至るまでの地域間の食文化の差につながっている可能性が高いと考えている。戦後すぐの物資不足によって原材料供給が逼迫した時期に、GHQは原材料効率に優れたアミノ酸業社に向けて優先的に減量供給を行おうとしていた。そうした状況を改善するために、キッコーマンが「新式二号醤油」という原材料効率に優れた醤油醸造方法を開発、無償公開して、原材料供給の確保に努めた。松喜醤油も、福岡県における「新式二号醤油」製造指定工場に選ばれていることが分かっている。ただ、松喜醤油はすぐにアミノ酸製造工場としての認可を受けており、戦前来のアミノ酸醤油製造に戻ったことが分かっている。
 以上から、戦時統制による中断があったものの、アミノ酸醤油を需要する市場が北部九州には存在していたことが分かってきた。こうした点をより実証的に分析、考察していくことに加えて、同時期の西日本地域各地の事例分析が中期での今後の課題である。また、同様の論点から西日本各地のさまざまな食文化圏の特徴について比較分析していき、現代にまで続く食文化形成過程を明らかにすることが長期での目的と考えている。

2022年5月

現職:立教大学経済学部 助教