成果報告
2020年度
上座部仏教における文芸理論
- 名古屋大学大学院人文学研究科 博士後期課程
- 塩田 宝澍
研究の動機、意義、目的
上座部仏教とは、スリランカや東南アジアを中心に展開、発展した仏教の一派であり、そこではパーリ語で記された経・律・論をはじめ多くの仏教文献が保持されている。これらのパーリ仏教文献は、他の宗教の文献と同様に、文学的要素が強く、しばしば読解を困難にする修辞技法が用いられている。しかし、バラモン教・ヒンドゥー教の文学作品を論じるサンスクリット文芸理論は研究が進んでいるが、仏教文化の基底をなすパーリ文学の文芸理論については研究が極めて不充分である。
パーリ文芸理論書は、スリランカの仏教僧サンガラッキタ(12–13世紀頃)が著した韻文の学術書『簡理修辞論』(Subodhālaṅkāra、以下『簡理』)のみが現存している。『簡理』は現代の上座部仏教僧にとっても必修とされる基本的なテキストであり、パーリ文芸理論の全貌を解明するには『簡理』の研究から着手するのが適切といえるが、先行研究で解明されていることが多くない。
パーリ文芸理論、特に修辞技法を明らかにできれば、更なる経典研究の進展、そして仏教の本質理解が期待できる。さらに、先行するサンスクリット文芸理論書と『簡理』の関係を明確にすることで、サンスクリット文芸理論書からどれだけ汎インド的要素が入り込んでいるのか、また汎インド的=バラモン教的価値体系をどう解体し、パーリ語的=仏教的文学理論としての独自性を出せるのか、検証することが可能となる。
本研究では、パーリ文芸理論研究の確立という最終目的を達成するため、『簡理』の説く文芸理論の詳細を解明することと、パーリ文芸理論の成立背景を解明することを目的とする。これらの目的を果たすため、本研究では『簡理』第4章に記されている修辞技法に関する記述に焦点を当て、テキスト校訂と関連文献との比較研究を行う。
研究成果、研究で得られた知見
本研究では、次の2点を明らかにした。第1点は、修辞を分類する際に修辞の分類区分である〈言葉の修辞〉と〈意味の修辞〉が『簡理』においてどのように記され、両者がどのような関係を有しているかということである。『簡理』において、〈言葉の修辞〉は美質、すなわち文章における美点を指し、〈意味の修辞〉は文章を飾る技巧である修辞技法を指していると推測できる。また、両者は接点を持ち、それを先行研究の指摘するように〈意味の修辞〉に依拠した〈言葉の修辞〉の成立という関係として捉えるのではなく、〈言葉の修辞〉により〈意味の修辞〉が成立する。あるいはその効果が増すという関係を想定することができる。すなわち、修辞技法があるから文章における美点が存在する、と想定するだけでなく、文章による美点によって、修辞技法が際立つと考えることができる。
第2点は、『簡理』は、先行研究で指摘されていたように、ダンディン(7–8世紀頃)が著したサンスクリット文芸理論書『美文詩の鏡』(Kāvyādarśa、以下『鏡』)だけでなく、他のサンスクリット文芸理論書も参照しながら『簡理』を著したと推断できるということである。本研究では、『簡理』、『鏡』、バーマハ(7–8世紀頃)の『美文詩の修辞』(Kāvyālaṃkāra、以下『修辞』)、マンマタ(11世紀頃)の『美文詩の解明』(Kāvyaprakāśa、以下『解明』)の記述を比較した。その結果、一部の修辞技法に関する記述において、『簡理』には『鏡』より『修辞』に類似する記述が存在した。また、『鏡』と『修辞』には存在しないが、『簡理』と『解明』には存在する修辞技法の記述があった。これらの事実を鑑みると、『簡理』は、先行研究にあるように『鏡』を基に作られているが、『鏡』だけでなく、『修辞』や『解明』といったサンスクリット文芸理論書を吟味し、パーリ文芸理論の体系を構築・提示した著作であると言える。
今後の課題、見通し
パーリ文芸理論が上座部仏教社会において、どのように位置付けられていたのか明らかにする必要がある。この点を明確にすることによって、サンスクリット文献に対して排他的な態度を取っていたと言われるスリランカ上座部仏教教団において、パーリ文芸理論がどのように受容されていったのか推測することができる。また、『簡理』がスリランカで著されたという事実を考慮すると、シンハラ文芸理論書の存在も無視できない。シンハラ文芸理論書は『簡理』同様『鏡』の影響を受けたと言われている。三者の関係を分析することによって、サンスクリット語からの影響だけでなく、スリランカ独特の考え方や、パーリ語特有の記述を断定することができよう。これらの点を明確にすることによって、真のパーリ文芸理論研究が確立できるだろう。
2022年5月