成果報告
2020年度
言語をめぐる欧州の多国間政治 ヨーロッパ的言語観の形成史
- 東海大学文化社会学部 非常勤講師
- 貞包 和寛
研究の動機
欧州連合 (EU)は、加盟国全ての公用語を政治体の公用語とする「公用語平等主義」を採用している。この言語体制は他の国際機関に類を見ない特殊なものであり、言語を通じた加盟国のナショナリズムを調整するなかで発展してきた。一方、各加盟国内の少数言語については、欧州評議会が1990年代初頭から積極的な法整備を行っている。現代ヨーロッパの言語政策は、EU と欧州評議会それぞれの政策が2本の柱となっており、極めて複雑な様相を呈している。この実態を言語政策論の観点から総合的に捉えることが、本研究の目的である。
研究の意義
EUや欧州評議会に関する研究は、法学や国際関係論の分野において多くの蓄積がある。しかし言語政策論においては未だ先行研究が少ない。本研究によって、言語の観点からのEU、欧州評議会の特殊性が明らかになることが期待できる。
研究の目的
本研究の目的は、EUと欧州評議会の中で言語がどのような位置づけで論じられてきたかを明らかにすることにある。EUと欧州評議会はいずれも、単一言語政策ではなく、いわゆる多言語主義 multilingualism を推進している。しかし両者が多言語主義を推進する背景は大きく異なっている。EUにおいては、多言語主義は加盟国のナショナリズムの調整のために発展し、結果的に現在の公用語平等主義に至った。一方で欧州評議会においては、民族的少数者の人権保護に対する国際的関心の高まりから、少数言語保護体制が整備されてきた。この 2 本の軸を総合的に研究することで、本研究の目的が達成される。
研究の成果
本研究の成果として、以下の2本の論文を発表することができた。
1.「欧州連合の言語政策とブレグジット―イギリス離脱後の英語の位置付けをめぐって―」
『新潟国際情報大学国際学部紀要』第7号、91–105頁、2022年。
2. The Silesian Problem in Poland through the Prism of the Monitoring Cycles of the Framework Convention for the Protection of National Minorities: Comprehensive Analysis from the First Cycle to the Fourth.『スラヴ学論集』第25号、103–124頁、2022年。
上記1は、EUの言語政策の発展史を概観し、言語政策論の観点からブレグジットの影響を考察したものである。EU の言語政策は、加盟国の主権を文化的側面から尊重するために発展してきた経緯がある。この点に鑑みると、2016年のブレグジットは英語のプレゼンスを低下させるようにも見え、実際に、「英語がEUの公用語から外されるのではないか」という憶測がブレグジットの前後に現れた。しかし実際には、ブレグジットを契機として、EU内における英語はこれまでになかったほど肯定的に捉えられている。イギリスの言語的優位を懸念する必要がなくなったため、英語をEU内のいわばリンガ・フランカとして評価する議論が優勢になったからである。論文1ではこの背景を踏まえ、ブレグジットを言語政策論の観点から検証し、EU 内における英語の特殊な位置づけを明らかにした。
上記2は、ポーランドの少数言語政策に対する欧州評議会のモニタリングをまとめたものであり、本助成の研究課題であると同時に、筆者のこれまでの研究を深化させたものでもある。1998年に発効した欧州評議会の国際条約「ナショナル・マイノリティ保護枠組条約」の規定により、同条約の批准国は5年に1度、モニタリングに応じる義務がある。ポーランドも2000年の条約署名以来4度のモニタリングに応じており、最新の第4次モニタリングは 2020年10月に終了した。論文2では、ポーランドの少数民族問題である「シロンスク問題」を対象としつつ、第1次から第4次モニタリングの間にシロンスク問題の論じられ方がどのように変化したかを論じた。ポーランドにおけるシロンスク問題は、第3次モニタリングまでは、シロンスク人の民族的・言語的ステータスの法律的認可をめぐって展開されてきた。しかし第4次モニタリングにおいて、欧州評議会のモニタリング委員会は、ポーランド議会における少数民族出身議員の存在、議会での議席配分、選挙制度の不平等性など、民主主義的プロセスを論点とし始めた。すなわち第4次モニタリングでは、シロンスク問題に関する交渉の方針・戦略を欧州評議会が大幅に変更した事実が明らかになった。
今後の課題
今後の課題としては、言語をめぐる裁判所判例をより詳しく見ていきたい。EUの場合は欧州司法裁判所、欧州評議会の場合は欧州人権裁判所において、言語問題が論じられた例がある。これらの判例の積み重ねもまた、現在の「ヨーロッパ的言語観」を形成してきたと言えよう。関係の判例を詳しく分析することで、本研究の内容をより発展させることができると考えられる。同時に、EUの少数言語政策についても研究を進めていきたい。上記の論文1ではEUの公用語政策に集中したため、EU独自の少数言語政策を含むことができなかった。また、ヨーロッパの言語的少数者に関する法的保障は、原則としては欧州評議会が進めてきた経緯がある。しかし EUも言語教育計画に少数言語に関する計画を盛り込むなど、少数言語に対する独自の取り組みを進めてきている。この点は助成期間の研究のみでは十分に記述できなかった部分でもある。以上2点を今後の課題とする。
2022年5月
現職:日本学術振興会特別研究員PD(受入機関:上智大学外国語学部)