成果報告
2020年度
帝国日本の形成と日本陸軍軍医部の学術ネットワーク ─学知の交換・共有に注目して─
- 名古屋大学大学院人文学研究科 博士後期課程
- 加藤 真生
本研究は、明治期における日本陸軍軍医部の学術ネットワークを分析し、明治期日本陸軍軍医部を取り巻く学術環境の実態を国内外の観点から明らかにするものである。明治期の日本は、日清戦争と日露戦争という大きな対外戦争を経験し、帝国として成長していった。この二つの対外戦争は戦死者の数で大きな違いがある。日清戦争は赤痢やコレラなどの急性感染症による病死者が戦死者の約九割を占めた一方で、日露戦争では病死者数が戦死者の約三割に抑制された。この事実は、日本の海外派兵能力に大きな画期が生じていたことを示すものであり、当該期の日本の帝国化を軍事的な観点から探るうえで重要な論点となる。
これまでの日本近現代史研究における帝国日本の形成と日清・日露戦争の展開を探る研究群では、主に19世紀末から20世紀初頭のヨーロッパにおける国際関係史、政治史、外交史的な動向と近代日本の動向を関連づけて分析されてきた。とりわけ、政治史、外交史、国際関係史の観点から日清戦争と日露戦争の開戦過程や戦争の結果が持った意味が分析され、帝国日本の成立過程やそのインパクトが問われてきた。このように日本近現代史では、帝国日本の形成と日清・日露戦争との関係については、政治史、外交史などに関心が集まっており、戦傷病死者の推移の背景については十分に検討されてこなかった。そこで筆者は、この課題を克服するべく、軍隊の医療・衛生を司る日本陸軍軍医部に注目し、その組織構造の展開を分析することで、日露戦争における感染症抑制の歴史的背景を明らかにすることとした。以上の問題関心をふまえ、本研究では第一に日本陸軍軍医部と国内外の医療・研究機関、学術組織の関係(学術ネットワーク)について、第二に日本陸軍軍医部における軍医の質を維持・向上させるシステム(進学システムとして仮称)について検討した。以下、第一、第二の研究から得られた成果について説明する。
まず、第一の課題について。明治期における日本陸軍軍医部の海外との学術ネットワークは、海外留学、軍事医療統計交換ネットワーク、清国駐屯軍の三つが存在した。このうち後者二つが、今回筆者が明らかにしたものである。19世紀のヨーロッパでは国際的に兵士の死亡率を抑制するべく、軍事医療の学知を交換・共有する動向が生じていた。この動きのなかで最も注目された医療・衛生改革のツールが軍事医療統計であった。国際会議では各国間の軍事医療統計の規格統一と共有を目指した議論が進み、統計の交換も始まっていた。こうした動向のなか、日本陸軍軍医部も軍事医療統計の改革を進め、ヨーロッパ諸国との間で軍事医療統計の交換を開始した。この交換で重要なのは、軍事医療統計を獲得できたことのみならず、併せて様々な軍事医療に関するモノ・情報の交換が行われるようになったことである。これにより、日本陸軍軍医部は自然にヨーロッパ諸国が持つ軍事医療の知見を得られるようになった。またモノ・情報の交換は日本国内でも行われた。日本陸軍軍医部では、陸軍軍医学会が私的に組織され、機関紙を日本国内の諸学会に積極的に発信した。日本陸軍軍医部は、自ら情報発信を積極的に行うことで部外各方面から最新の研究成果を獲得し、日本陸軍軍医の教育や軍事医学研究に活かしていた。また、この軍事医療の知見を得るという点で清国駐屯軍の存在も大きかった。北清事変以降、清国には日本も含め八カ国の軍隊が駐屯しており、各国軍医は盛んに学術的な交流を行っていた。清国では海外留学や軍事医療統計交換ネットワークでは得られない、現場で開発・発見された実践的な学知が得られ、明治期の日本陸軍軍医部において重要な研究フィールドとなっていた。
次に日本陸軍軍医部の進学システムについて。日本陸軍軍医部では、明治20年代以降、陸軍軍医の質を維持・向上させるシステムを整備するために陸軍軍医学校が設けられた。各地の軍医を一定期間陸軍軍医学校に召集し、教育を施す施策が取られたが、日清戦争以降には陸軍軍医学校の不十分な教育・研究環境を克服するべく部外の医療機関と提携し、軍医の実地訓練の場を設けたほか、伝染病研究所への派遣などが開始された。重要なのは学術ネットワークから得られた情報はすべて陸軍軍医学校に集積されており、進学システムと学術ネットワークには関連性があったこと、そして進学システムが日本陸軍軍医部単独で成り立っておらず、部外組織に依存する形で成立していたことである。つまり、近代日本の対外戦争と感染症問題は当該期の日本の医学界の質とヨーロッパ諸国軍医部との関係によって規定されていたことが考えられるのである。
以上のように、帝国日本の派兵能力は部外組織との学術的な関係によって規定されていたのであり、そこには政治・外交的な関係に収斂されない世界も存在したはずである。今後は軍医個々の活動に留意し、医学界の中の日本陸軍軍医部の位置を検討していきたい。
2022年5月
現職:日本学術振興会特別研究員PD(受入機関:専修大学大学院文学研究科)