成果報告
2020年度
イスラームと酒:シャリーア・国家・伝統文化の緊張関係を読み解く
- 日本学術振興会 海外特別研究員(受入機関:コロンビア大学)
- 海野 典子
1.研究目的
イスラームでは、酒の摂取は理性を失わせる禁止行為(ハラーム ḥarām)とされており、経典クルアーンには酒が禁止された経緯が段階的に示されている。サウジアラビアのように、飲酒だけでなく、酒の製造・販売や医療アルコールの使用までもが規制・刑罰の対象とされている国や地域も少なくない。ムスリムがマイノリティである社会では、飲酒をめぐってムスリムと非ムスリムが衝突する事件も起きている。しかし、一方で、飲酒に比較的寛容なトルコやマレーシアのような国もある。酩酊しなければよい、神聖なラマダーン月の間だけ禁酒すれば問題ない、とシャリーア(イスラーム法)を柔軟に解釈する人もいる。さらに、中東・中央アジアでは、飲酒を礼讃した中・近世ムスリム詩人の作品が好まれ、スーフィー(神秘主義者)は酒や麻薬を摂取し陶酔状態になることで、神との一体感を求めた。このように、イスラーム世界における酒と人の関係は、本来多様かつ曖昧である。
本研究の目的は、酒をめぐるシャリーア解釈・国家の法律・伝統文化や非ムスリムとの緊張関係に注目して、中東・中央アジア・東南アジア・南アジア・東アジアのムスリム社会における酒の宗教・社会・文化・経済的役割を明らかにすることである。酒というタブーを通じて、厳格で教条的なイメージの強いイスラームの多面性や非ムスリムとの柔軟な関係を調べることにより、多元的価値観をもつ人間同士が折り合いをつけながら生活する方法を考えることが本研究の第一の意義である。第二の意義は、一般的に酒とは無縁と考えられている、イスラーム世界における酒文化の実態を本格的に解明することによって、食文化研究に新たな研究視角をもたらすことである。
2.進捗状況と新たに得られた知見
対面の研究会を2回(2019年9・12月)、オンライン研究会を5回(2020年11月、2021年1・5・9月、2022年2月)実施し、中東や中央アジアの宴会、酒文化に関する先行研究を読んで内容を議論した。その結果、以下の気づきを得ることができた。
第一に、当初の研究計画ではイスラーム世界各地における酒をめぐるシャリーア解釈や飲酒の実態に注目していたが、先行研究を整理するうちに、酒と近代化・商業化・都市化、大量生産・出稼ぎ労働・流通・消費・酒税法による経済への影響といったより大局的視点から、本課題に取り組む必要があるというメンバー間の共通認識を得ることができた。また、中近世イスラーム世界の学問に多大なる影響を及ぼしたギリシアの科学技術が、中東に酒の蒸留技術をもたらしたという歴史的経緯の重要性を再確認した。さらに、メンバーの関心は世界各地の発酵食文化や、アルコールを摂取しないムスリムの発酵食品に対する認識にまで及んだ。
第二に、「イスラームと酒」というテーマに関する先行研究が少ない理由を改めて考えることができた。その理由として挙げられるのは、①飲酒を快く思わないムスリムがいるため、酒の生産・販売・流通・飲用に関する記録が限られていること、②人文社会科学系学問では飲食というテーマに取り組む研究者が必ずしも多くないこと、の2点である。①の問題については、現地調査の実施や多言語資料の読解を通じて多角的な視点からのデータを集めることにより、克服することができるだろう。②に関しては、飲食、それもイスラーム世界における酒という、これまでタブーとされてきたテーマの重要性や面白さを幅広い分野の研究者に発信することによって、食文化研究を大きく進展させることができると確信した。
3.今後の課題と展開
本プロジェクトの採択期間は2021年7月末をもって終了したが、新型コロナウイルスの感染拡大により調査旅行や対面の研究会を十分に実施することができなかったので、引き続き研究活動を継続していく予定である。新型コロナウイルスの感染状況が改善されれば、対面の研究会や国内外での調査を再開したい。
とは言え、収束の見通しが立たない現状においては、インターネットを利用したインタビュー・アンケート調査を実施する、調査地を変更するなど、臨機応変に研究計画を修正することが必要である。酒類を提供する日本国内のハラールレストランでの調査を行うことも視野に入れている。また、いずれは調査内容を研究成果としてまとめ、一般向け書籍として刊行することを前向きに検討している。
2022年8月