成果報告
2020年度
不信学の創成 ―「健全な不信」の実現を目指して―
- 大阪経済大学経営学部 専任講師
- 稲岡 大志
1 研究目的・概要
現代社会では、医療不信、食料品への不信、年金不信、学校不信、政治不信など、さまざまな不信が生じている。社会制度や科学技術の複雑さに対応するかたちで、私たちが抱く不信も複雑かつ多様である。個々の学問分野では、そういった不信現象を分析し、対応策を講じる試みが行われているが、そもそもすべての不信は同種の要因で起こるのか、あらゆる不信に同種の対応が適切なのかといった問題は、個別分野の知見を用いるだけでは解明が難しく、事実的探求や規範的探求といった、哲学的アプローチや学際的アプローチが必要である。また、「不信」という現象が多様であるのにあわせて、各分野で用いられる「不信」概念も多様である。それらを総合して、「不信学」を創成することは、現代のような高度情報化社会において、フェイクニュースやヘイトスピーチなどによって引き起こされるマイノリティへの不信など、市民社会にとって「不健全」かつ危険な不信が生じている現状を考えても、社会的急務である。
そこで本研究では、本研究グループのメンバーが2014年に設立した安心信頼技術研究会において構築した学際研究のプラットフォームを発展的に活用し、分野ごとに多様な不信現象の分析を行い、多様な対象への不信とともに今後生じるかが不確実な対象への不信現象をも包括的に捉えることができる不信学の創成を目指す研究を行った。
2 研究進捗
今年度は研究メンバーによる定例研究会をオンラインにて行った。規範的探求として、信頼や不信に関連する文献の検討を進めた。また、理化学研究所・革新知能統合研究センターとセコム株式会社と共同で、情報セキュリティにおける信頼と不信に関する研究も行った。事実的探求としては、2020年12月に「芸術行政と不信」をテーマにしたワークショップをオンラインにて開催した。講演者は、明戸隆浩(社会学)、太田信吾(映画監督)、吉田早悠里(文化人類学)の各氏である。参加者は30名ほどであった。また、2021年3月に「食と不信」をテーマとしたワークショップをオンラインにて開催した。講演者は、髙畑能久氏(食品安全マネジメント)、石川伸一氏(分子食品学)、板井広明氏(社会思想史)の各氏である。参加者は20名ほどであった。
3 新たに得られた知見
前年度の研究で、不信現象を「健全な不信」と「不健全な不信」との二種類に区分するという研究開始当初の枠組みを再検討すること、および、規範的探求として、多様な不信現象を単純化することなく捉え、類型化を試みることが必要であるという知見が得られたが、今年度はこの知見を踏まえた研究を進めた。理研・セコムとの共同研究では、情報セキュリティにおける信頼を主題とした概念の整理を行い、不信は信頼のたんなる欠如ではなく、ネガティブな態度を含意することが確認された。
事実的探求として実施した「芸術行政と不信」ワークショップでは、招聘講演者に、あいちトリエンナーレの「表現の不自由」展中止事件、映画『解放区』に対する大阪市の「検閲」、エチオピアにおける文化行政について講演していただき、不信が生まれる現場の詳細を知ることができた。また、同じく事実的探求として実施した「食と不信」ワークショップでは、招聘講演者に、食の安全を推進するフードディフェンスや、培養肉や3Dフードプリンタといった新しい食テクノロジーの現状と課題、肉食をめぐる倫理的議論について講演していただき、私たちにとってもっとも身近な「食」をめぐる不信の諸相について議論することができた。
こうした事例の検討を踏まえて規範的探求を行い、不信が発生するメカニズムは、行政や制度や専門家などに対する「過剰な信頼」に由来するタイプと「過小な信頼」に由来するタイプの二通りに大別できるのではないかという見通しを得ることができた。さらに、信頼や不信といった概念によって説明することはできないと現場では考えられる現象に対しても、信頼や不信概念を用いた分類を試みたり、類似する概念と比較するといった作業を通して不信研究の対象とすることが可能ではないかという、今後研究を進めていく上での方法論上の見通しも得ることができた。
4 当初狙っていたにもかかわらず達成できなかったこととその理由
今年度はCOVID-19の影響で本来開催を予定していたワークショップや研究会を延期ないし中止せざるをえず、また、研究代表者を含む研究メンバーもオンライン授業への対応などで時間を割かれたため、規範的探求の進捗は関連文献の調査と読解にとどまってしまっている。今後はオンラインによって研究会やワークショップを開催し、研究の遅れを取り戻したいと考えている。
5 今後の展開
2021年10月に「メディアと不信」をテーマにしたワークショップを、2021年度内に「哲学的信頼・不信研究の現在」をテーマにしたワークショップを開催する予定である。また、研究成果を社会に発信する方法としては、「不信」に関する研究論文や研究書に関するサーベイを行い、不信学アーカイブとしてウェブサイトで公開すること、および、研究成果を書籍として公刊する準備も合わせて進めている。
2021年8月