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研究助成

成果報告

外国人若手研究者による社会と文化に関する個人研究助成(サントリーフェローシップ)

2020年度

「勢」と「風俗」:近代国家建設における水戸学の系譜

東京大学大学院法学政治学研究科 博士課程
常 瀟琳

 本研究「『勢』と『風俗』:近代国家建設における水戸学の系譜」は、西洋との遭遇に揺れた19世紀の日本において、西洋をモデルとすると考えられた文明と、固有の慣習との間の葛藤という課題に直面した当時の思想家たちがいかなる解決策を提示したかについて、主に対外認識、人心の振起および教育・宗教政策といった論点をめぐって、水戸学者と文明論者との間で交わされた議論に着目して検討するものである。
 水戸学は、日本の「皇統」「国体」を強調し、幕末の尊王攘夷運動に影響を与えた政治思想として知られているのに対して、文明論者は、西洋思想の影響を受けて、明治時代の「文明開化」に大きな役割を果たしたと評価されている。従来の研究では、水戸学は江戸時代の思想と考えられがちであるのに対し、文明論者については明治以降の西洋学問の紹介者としての役割が注目されるという傾向があり、両者を比較の対象として把握する発想は希薄であった。しかし、水戸学は維新後、歴史の表舞台から退場したとの一般的な印象とは異なり、その継承者は明治期にも引き続き活躍していた。逆に、「文明論者」も、江戸後期以来の学統に連なっており、水戸学が提起した問題と主張を意識しながら己の思想を発展させていったという側面もある。共に儒学という学問的基盤を持っていた両者は、日本の独立と人心風俗の改善という共通の思想課題に立ち向かったのであり、議論の際に用いた概念も多く共通している。また、両者の間には、19世紀を通じて交流と論争が存在し重要な対話相手であり続けた。
 本研究が取り上げた具体的な研究対象は、19世紀前半に論争を行った会沢正志斎(江戸末期の水戸学者)と古賀侗庵(儒者)、そしてそれぞれの弟子である内藤耻叟(明治期の水戸学者)と中村敬宇(儒者・文明論者)、および福沢諭吉である。これまでの研究で以下の点を明らかにした。
 ①19世紀前期の時点で、会沢正志斎と古賀侗庵は共に海防問題の緊急性を意識していたが、支配者の道徳とその統治技術に注目し、武士の士気を振起すべきことを主張した儒者の侗庵と異なり、会沢正志斎は、通常、政治や戦闘に関わらない被統治者の力に注目して、民心の一致をより強調した。
 ②師の古賀侗庵と同様、儒教上の普遍的な「理」と、水戸学者に通じる一国の特殊な「風俗」の間で揺れ動いた青年時代の中村敬宇は、アロー戦争の強い刺激を受けて、「道理」から「風俗」へと視角を転換した。
 ③身分制の変容や対外危機を克服するために被統治者たる「風俗」や「民」の力を重視したという点では共通しているものの、「風俗」の概念に対する理解の差異こそが、文明論者と水戸学者の間の絶対的な分水嶺となった。
 ④西洋の「風俗」を観察することによって、人民の「智力」と「道徳」が優れていることが国家の強大の原因であると確認した中村敬宇は、儒教の「道」を乗り越えた意味で再び「道」の普遍性を確認し、明治期以降キリスト教の導入を主張した。
 ⑤一方で、福沢諭吉は「風俗」の改善に当たって、「徳」と並んで、「智」の作用がさらに重要であると考えた。本研究は福沢が愛用する「籠絡」というキーワードを取り上げて、人々の智徳の発展を妨害する「籠絡」およびその背後にある「権力の偏重」という社会構造を糾弾した福沢が、人々の智徳の向上のために、手段としての「籠絡」を積極的に活用する方法を探索する段階を経て、最後に政府の「籠絡」濫用の問題や、人々の「心波情海」の動きが制御しがたいことに深く悩むに至った過程を跡付け、福沢の思想的展開とそれに内在する問題点を分析した。
 ⑥これに対して、水戸学者の内藤耻叟は、「智力の籠絡」の破綻をいち早く指摘し、一国家、社会を維持するためには、「智力」よりも、「感情」の方が重要であると主張した。内藤は、文明論者が紹介した文明の進歩史観を受け入れた上で、進歩の基礎は「忠孝」であると論じて、「智力の時代」から「感情の時代」へと移った明治中期以降の思潮に適応できる形で水戸学を再構築しようと試みた。
 以上に述べたように、本研究は、当時の文脈に即した形で、「風俗」「慣習」の多様性と歴史的な変化という問題をめぐって、水戸学者と文明論者の思索を分析した。お互いを補助線として比較することによって、両者の思想的発展、ひいては19世紀の日本の政治思想史の内在的な発展過程を掴むのが本研究の最終的な目標である。
 今後は、明治初期の文明開化路線から明治中期の国民道徳教育へという発展、キリスト教問題をめぐる水戸学者と文明論者の論争などの具体的議論や、明治期に生まれて成長した新世代の思想家との繋がりなどの問題を解明するのが課題である。

 

2022年5月

※現職:東京大学大学院法学政治学研究科研究生