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研究助成

成果報告

外国人若手研究者による社会と文化に関する個人研究助成(サントリーフェローシップ)

2020年度

清末中国の情報伝達と政治構造

東京大学大学院人文社会系研究科 博士課程
殷 晴

 本研究は、情報伝達のあり方の歴史的変遷という視点から、清末中国における政治構造の変容を考察しようとするものである。これまでの先行研究において、清朝の情報伝達は主に奏摺制度および駅伝制度の根幹となる駅に注目が集まっており、中央集権的な政治体制の特徴として語られてきた。しかし、政治情報が如何に人々に伝わったのかについては、体系的な研究がほぼ皆無である。この問題の解明は、清代における情報伝達の全体像を捉えるためのみならず、清朝統治のあり方を考える上でも不可欠な作業だといえる。
 申請者はかつて、19世紀前半まで全国的な政治情報を伝えた唯一の定期刊行物である邸報(朝廷の動向・皇帝の上諭・大臣の上奏文を日ごとにまとめて掲載した小冊子)について研究を行っていた。今年度は、邸報に代表される清朝従来の情報媒体が19世紀半ば以降に直面した問題を明らかにし、そこに見られる清朝の政治構造・政治文化の変容を考察した。研究方法は、第二次アヘン戦争(1856−60年)と日清戦争(1894−95年)を事例として取り上げ、戦争中の情報伝達のあり方を具体的に分析することである。研究の結果、以下の知見を得ることができた。
(1) 第二次アヘン戦争中の情報伝達  清朝政府の第二次アヘン戦争における情報伝達は、1840年代以来の対外情報の収集・共有・公表のあり方を継承したものであり、従来の仕組みの問題点を露呈させることにもなった。清朝政府における情報の取り扱いは事実上、内政と外政で分けられていた。内政に関する情報は関連部署に共有されていたほか、その一部が邸報での掲載を通じて広く一般にも公表された。それに対し、外政に関する情報は基本的には一律に機密扱いとされており、密奏―廷寄(個別の官僚に向けて発せられた皇帝の指示)の形で清朝中央と現場担当者の間のみに共有されていた。このような対外情報の共有・公表の仕組みは虚偽情報の発見を困難にし、誤った情報が閉ざされた回路の中で累積する危険性を孕んでいた。アロー号事件の発生から広州陥落までの一年間、清朝中央が両広総督(広東省・広西省を管轄する地方行政官)の誤報と虚報にミスリードされ続けていたことは、この問題を端的に表している。
 清朝中央の情報発信に対する消極的姿勢は、官僚の混乱と不安を引き起こしたのみならず、イギリス側の不満も招いた。天津条約の全文を中国人に広め、条約の公刊と掲示を北京条約に明記し撤兵の条件としたことは、イギリスが公表という手続きを強制的に実行させるための措置であると同時に、自らの存在と影響力を誇示するための手段でもあった。
 また、イギリス人の新聞で公開された情報が、清朝政府の収集対象となったことが注目される。戦争を経て、新聞から収集された連合軍情報の正確さが判明し、それ以降、英字新聞の収集と分析が外政に携わる官僚の通常業務とされるようになった。一方、英字新聞からの情報収集は、情報そのものに対する認識の変化ももたらした。対外情報も公開されうる(あるいは公開されるべき)という考え方が、抵抗を受けながらも、清朝の官僚と知識人の間に徐々に浸透していったのである。
(2)日清戦争中の情報伝達  第二次アヘン戦争時に比べ、日清戦争時の情報伝達の特徴は、①電報による情報の拡散、及び②漢字新聞・雑誌の登場、との2点にある。清朝政府の情報発信に対する消極的姿勢は、第二次アヘン戦争時と変わりがなかった。しかし、中枢の外にいる官僚でさえ軍事行動と交渉の進展を把握できなかった第二次アヘン戦争時とは異なり、日清戦争の時は、一般の人々も新聞から大量の速報性のある情報を得ることができた。その結果、戦争情報の取得は官僚および官界に人脈を持つ人々の特権ではなくなり、官民間の情報格差が大きく縮小した。
 日清講和条約の締結の正当性をめぐって、それぞれの政治的主体、すなわち①条約締結に反対する北京の官僚と知識人、②条約締結の批准者である光緒帝、③調印の実行者である李鴻章は、それぞれ①上奏・上書、②限定された官僚向けの硃諭(皇帝が自ら執筆した上諭で、上諭のうち最も格式の高いもの)、③新聞・雑誌といった性質の異なる発信手段を利用した。これは、新たな情報媒体がまだ社会に十分に定着していないというメディアの過渡期特有の現象であり、また、社会の政治的関心と清朝中央の情報発信に対する消極的姿勢のギャップ、および下級官僚・知識人の意見発信への強い意欲と「言路」(皇帝への意見奏上の道)の狭隘のギャップを示すものでもあると考えられる。先行研究が指摘したように、康有為をはじめとする名高い知識人のジャーナリズムへの参入、およびその結果としての「情報媒体の政治化」は、ジャーナリズムの社会的地位の向上と知識人の言論活動の活発化のきっかけになった。本研究で強調したいのは、康有為らが政論雑誌の編集・発行者として政治の舞台に上がった要因には、日清戦争中に露呈した上述のようなギャップが存在していたということである。

 

2022年5月