成果報告
2020年度
戦間期~戦時の帝国日本における農業と政治―帝国経営の政治経済史―
- 東京大学大学院総合文化研究科 博士後期課程
- 村瀬 啓
【研究の目的】
本研究は、戦間期の日本の帝国経済運営の政治過程を検討するものである。その際、朝鮮総督府や満洲国といった帝国内の出先機関(「外地政府」と呼ぶ)を、独自の権力基盤と利害及び構想を有した自律的政治主体と捉え、それらと内地政府との越境的・双方向的な政策調整に着目する。
第一次大戦後の日本は、産業の急速な進展とその反動としての慢性的な不況に見舞われる一方で、毎年60〜70万人ずつ増加する人口を抱え、それをいかに吸収・移転・扶養するかという問題(「人口食糧問題」)に直面した。1929年の世界恐慌後、世界経済のブロック化が進行すると、日本も自らの勢力圏でブロック経済を建設する必要に迫られていった。
戦間期の日本が直面した上記の経済問題は、当時の政治行政において深刻な課題と認識されると同時に、いずれも植民地や勢力圏をも一丸とした広域的な対応を要請する点にその特色があった。実際、人口食糧問題は、食糧不足を植民地開発による生産増加で、過剰人口を海外や朝鮮・満蒙といった植民地・勢力圏への移植民で、それぞれ解決することが模索されていた。また恐慌克服のためには、日本本国(内地)に植民地から安価で流入する物品の流通を統制し、帝国内の経済摩擦を防ぐような分業の調整が必要だった。
しかし、上記の広域的対応の前提となる内外地政府の協調は、日本帝国において必ずしも容易ではなかった。例えば帝国内で最大の植民地であった朝鮮では、朝鮮総督があらゆる分野の行政権を属地的に掌握しており、内地の首相や各省大臣による監督権限は制度化されていなかった。そのため、朝鮮総督府や満州国が遂行する産業開発と内地の経済政策の衝突を、事前に避けるのは困難であった。
このように、内部に自律的な外地政府を抱えた戦間期の日本が、どのように広域的な帝国経済運営を行ったか。内地政府は自律的な外地政府とどのように利害を調整していったか。これを検討するのが、本研究の目的である。
【研究の意義】
日本の帝国経済の観点から外地開発を捉えようとする本研究の視角は、いわば日本の国策の中にアジアを位置づけるアナクロニズムにも見えるかもしれない。ただ、この視角を採ることで、「帝国」日本を内在的に理解することにつながると考える。
外地の開発は従来、植民地統治や戦時経済動員との関連から専ら検討されてきた。つまり、民族運動の懐柔や戦争物資の調達という観点から外地開発を捉えるため、開発をめぐって内地・外地政府の利害が一致していることが自明の理とされてきた。その結果、開発計画の実施の是非や内容、及び増産の結果として起こる経済摩擦をめぐって、内外地政府が対立し、その調整が政治過程上の焦点であったことが閑却される傾向にあった。本研究はこうした側面を積極的に取りあげる。
また、外地開発は朝鮮、満洲など各地域内部で別個に検討される傾向があった。しかし、例えば朝鮮開発の位置づけなどを見ても、満洲事変に伴う満洲開発の浮上などと連動して、帝国内における位置づけを変化させていく。本研究は日本の帝国経済政策に視点を置き、こうした複数の地域の開発計画の関係や、位置づけの変化を検討する。
以上の2つを併せて本研究は、内部に独自の利害と権力基盤を持つ複数の地域を包含する、広域的政治体としての日本帝国の政治過程の実相を、より高い解像度で捉えることに貢献する。
【本研究の展望】
如上の問題意識を念頭に、20年代の帝国経済問題の対処を議論するために開かれた審議会(帝国経済会議、人口食糧問題など)の議事の分析を進めた。
20年代の帝国経済論議は人口食糧問題を軸に展開していたが、帝国外への移植民を除くと、朝鮮の農業開発(産米増殖計画)と並んで、北海道開発(第二期北海道拓殖計画)が重視されていた。当時の議論においては地方と植民地の分界は曖昧であり、両者は同一平面で議論され、競合していたのである(実際、北海道長官に朝鮮総と同等の強大な権限を付与すべしとの提議もあった)。また、朝鮮と北海道の開発は食糧増産を企図する点で共通するが、後者が多数の移民を受け入れて人口問題の緩和をも目指したのに対して、前者は民族問題や小作問題を刺激するのを恐れ、内地人移民の受け入れに消極的であるなど、いくつか重要な点で差異があった。
今後は上記の議論の中での朝鮮・北海道側の論理を、史料調査を踏まえて明らかにすることで20年代の帝国経済論議の分析を完了させる。その後、両者の開発が昭和恐慌の打撃で見直しを迫られ、また同時期に浮上した満洲開発との関連の中で帝国経済における位置づけをいかに変化させたかを検討していきたい。
2022年5月