成果報告
2020年度
親鸞における信の構造の研究──言葉への態度をめぐって
- 東京大学大学院人文社会系研究科 博士課程
- 大胡 高輝
本研究は、日本中世の浄土思想家・親鸞(1173-1262)の主著『教行信証』の哲学的・倫理学的読解をつうじて、親鸞の思考の鍵概念である「信」の内実を明らかにしようと試みるものである。
親鸞の思考は、《あくまで有限者であるほかない「煩悩具足の衆生」(『尊号真像銘文』)が、むしろ有限者であるがゆえに、阿弥陀仏という絶対者の名号(「南無阿弥陀仏」)にふれることをつうじて、阿弥陀仏から「信」をあたえられ浄土に往生する》という特異な理路を構想したことによって、中世以来さまざまな形で日本の思想・宗教の動向に大きな影響をあたえつづけてきた。とりわけ近代以降、門弟の唯円の手になるものとされる言行録『歎異抄』が近代化以降の人間像・世界像にも親和性をもつテキストとして再発見・再評価されたことを契機として、その思考は宗門内にかぎらず、哲学・歴史学・批評・芸術をはじめとするさまざまな分野から多くの関心をあつめるようになった。
しかし、親鸞の思考がこれほど注目されてきたにもかかわらず、その鍵概念である「信」の内実はいまだ明確にとらえられてはいない。その主な要因は、従来の親鸞読解の多くにおいて、親鸞の思考がどのような場面を念頭において展開されていたのかが見定められないままに議論がすすめられてきたという点にあると思われる。従来の親鸞読解においては、「悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し名利の太山に迷惑して[…]」(『教行信証』信巻)といった表現に代表されるような、人間の内面・意識のありようをめぐる実存的な内省や、「仏性」「涅槃」「虚空」(『教行信証』真仏土巻)といった抽象的な概念をめぐって展開される形而上学的な思索が、親鸞の思考の基底をなす要素として強調されてきた。しかし、こうした要素はたしかに読み手に強い印象をあたえるものである一方で、そこで示される衆生の煩悩のありようや形而上学的概念の意味内容はいまだ具体的な規定をともなっているとは言いがたく、「信」が成立してくる場面の内実をそれらから直接導き出すことは困難であるように思われる。
そうした状況をふまえて本研究は、衆生のありようや阿弥陀仏の存在構造に関する親鸞の議論のなかに、しばしばそれらとからみあう形で仏の言葉(仏語)をめぐる議論が組み込まれているということに注目する。よく知られているように、親鸞はそもそも「信」を、阿弥陀仏の名号を称えるという行(称名念仏)と切り離しえないものとしてとらえており(「真実の信心は必ず名号を具す」(『教行信証』信巻))、また『教行信証』をはじめとする親鸞の著作の多くの部分は、おびただしい量の仏典の引用とその緻密な編集によって成立している。だとすれば、衆生のありようや阿弥陀仏の存在構造をめぐる議論が、仏語をめぐる議論とからみあう形で展開しているということは、親鸞の思考がなによりもまず名号をはじめとする多くの仏語とかかわるなかで展開されてきたということ、言いかえれば、親鸞の議論がつねに、仏語とかかわる経験から感得された光景を念頭において展開されたものであったということを意味してはいないだろうか。本研究はこうした視点から、親鸞が仏語をどのような存在としてとらえていたのか、またその仏語観のもとで親鸞が具体的にどのように仏語とかかわろうとしたのかを検討することをつうじて、「信」が成立してくる場面の内実をより具体的にとらえることをめざすものである。
こうした見通しのもとで、本研究は親鸞の衆生観・阿弥陀仏観と仏語観との連関を検討してきたが、助成期間においてはとりわけ、従来十分に検討できていなかった衆生の煩悩のありようが、仏語とのかかわり方とどのように連関しているのかを、『教行信証』化身土巻末巻で展開されている外道批判の議論に即して確認することができた。具体的には、親鸞は化身土巻末巻において『月蔵経』と法琳『弁正論』から長大な引用をとっており、これらの引文が化身土巻末巻の議論の骨格となっているが、その『月蔵経』引文において提示された、仏教/外道の区分に対応する「平等」/「邪見」という図式が『弁正論』にも引き継がれ、その中で外道の杜撰な議論のあり方が仏教の言語体系への無理解・背反と連関するものとして位置づけられていたことを確認することができた。
今後は、以上の成果をふまえて親鸞の衆生観・阿弥陀仏観と仏語観との連関をあらためて整理して、博士論文としてまとめることを当面の目標としたい。なお博士論文全体の構想としては、従来個の内面・意識の変容としてイメージされがちであった「信」を、むしろ仏語とのかかわりをつうじて他の衆生との関係が変容してゆく経験としてとらえなおすことをめざしている。
2022年5月
現職:静岡県立大学国際関係学部非常勤講師