成果報告
2019年度
近代東京・大阪の劇場建築における劇場計画の変容過程に関する研究
- 東京藝術大学美術学部 教育研究助手
- 辻󠄀 槙一郎
本研究は、日本の近代における劇場計画の萌芽とその変容過程を網羅的に考察し、都市空間と建築の関係の歴史的変遷を検討していくための、一定の方針・仮説を得ることを目的としたものである。本研究では、①劇場の立地状況のマッピング、②舞台・観客席・付帯機能の配置構成を捉えるための機能図の作成を行ない、近世からの立地状況の変化と建築計画との関係について仮説を得るための基礎情報をまとめた。
まず平面図史料を用いて、機能の類型に従ってフロア各室を色分けして各部面積の傾向を検討している。建築計画は舞台・観覧領域・〈公開部門〉・〈非公開部門〉に分け、〈公開部門〉はさらに〈動線〉(移動の空間)・〈滞留〉(上演以外に過ごす空間)・〈応対〉(受付や下足など)・〈便所・化粧室〉といった各機能で小分類をしている。このうち〈滞留〉部分は、明治期と大正期以降では傾向に明確な差異があり、明治期の事例は〈滞留〉の面積は概ね0である一方、帝国劇場以降は何らかの機能として必ず含まれ、喫煙の空間、食事の空間や休憩の空間が主である。石橋友吉『東洋大都会』(服部書店、1899)には明治31年頃に東京に所在した歌舞伎劇場に関する記載があり、それによれば歌舞伎座・市村座といった各座でまだ芝居茶屋が附属していたことが読み取れる。明治期は未だ近世的性格が継続していたと考えられ、そのため〈滞留〉部分の確保は全く重視する必要がなかったのであろう。〈滞留〉の大部分の面積は地下階に多く、全フロアの〈滞留〉の総合計のうち約50%を地下に充てる事例がみられるが、1階席の収容人数が必然的に大部分を占め、かつ上層階にいくに従って床面積が減少するため、〈滞留〉の空間が設置しにくいことが理由と考えられる。〈滞留〉の面積は演劇上演の施設で面積が多いが、映画上映の施設では特殊例としてオフィスなどとして貸付する室がみられる。これには安定的な施設の運営を担保する目的があったと考えられ、劇場の運営計画において複数の類型の存在が指摘できる例である。
機能構成には結論からいえば地域差というものは特にみられず、目立った地域性よりも計画の標準化傾向が強い印象である。明治期から昭和初期にかけての劇場の立地状況を、現時点で判明した限り地図上にプロットを行ない、近世との相違点を把握するため近世以前の立地もプロットして比較検討を行なったところ、明治初期に日本橋区・京橋区といった旧町人地に立地したのは新富座などに限られ、他は神田区・下谷区のうち旧武家地を転用するものが多く、判明しているのみでも12例に及ぶ。松山恵『江戸・東京の都市史』によれば、明治以降旧武家地を新開地と呼ばれる開発地域とし、やがてそれが劇場街という特有の都市領域を形成していったことを指摘しており、明治初期の事例すべてではないが、そうした開発地域を中心に劇場の建設を進めていた可能性が考えられる。一部名称の変更を頻繁に行なっているものがあるが、これは興行を打つ毎に建設申請をする仮設興行の施設であったとみられ、いまだ近世の小芝居的性格が残存していたことを物語っている。
一方、昭和初期は有楽町に多いが、これはすでに様々な先行研究で指摘されている東宝グループによる有楽町アミューズメント構想による劇場街開発である。日比谷・有楽町の変遷に関するリサーチは加藤得三郎の「都市中心地日比谷の変遷について」(『建築雑誌』,1937.12)に詳しく、それによれば昭和5年時252世帯あった住民数が同10年に209世帯に減少、人口も1551人から1393人に減少しており、定住者から通勤者に移り変わったことを指摘している。東宝による有楽町開発において注目できるのは、同時期に社報で浅草の露店と映画街のリサーチを行なっていることである。昭和12年8月30日発行の社報には「浅草見物」という記事があり、浅草公園内の露店の浅草6区に存在する映画館の収容人数と上演映画のジャンル、観客動員数についてレポートを行なっている。機能構成図でみられた雑多な商業的機能は、盛り場的要素をアトランダムに組み込み劇場それ自体が盛り場的構成を有することで、既存の盛り場に対抗していたのではないかと考えられる。
従来の研究では、明治以降東京の劇場建築は日本橋・有楽町といった東京中心部に進出したという解釈に限定的であったが、各時代区分の都市開発状況と劇場建設の立地傾向との明確な対応関係があり、それは劇場計画にも反映される傾向があったと考えられる。本年度はコロナ禍のため大阪出張による調査を行なえなかったが、大阪では旧武家地の転用という傾向はなく、こうした土地に明治以後どのような資本が注入され、開発が誘導されていったのかを今後探り、東京との事例比較を進めてみたい。
2021年5月