成果報告
2019年度
生活の質とワークライフバランスを求めた熟練労働者の移住に関する研究
- 筑波大学大学院生命環境科学研究科 博士後期課程
- 鈴木 修斗
現代日本では若い現役世代の間で「移住」がブームとなっている.彼ら彼女らは生活の質の向上を求めて移住する点において,これまでの人口移動理論で扱われてきた移住者とは性格を異にしている.地方移住の先行研究は地域振興としての移住に関する視点が強く,景観の消費やライフスタイルの変化を求めて移住する移住者の特性を捉えきれていない.他方,ICTの活用や働き方改革が進む中で,移住によってワークライフバランスの向上を求める現役世代が増加している.また避暑地やリゾート地へも移住し,地域の美しい景観や自然から影響を受けつつワークライフバランスを改善させている.以上から申請者は,欧米圏のLifestyle Migration研究の動向を援用しながら,移住による生活の質の向上プロセスを明らかにしたいという動機をもった.
そこで本研究では,良好な環境をもつ地域への移住を行う現役世代の熟練労働者の移住に着目し,ワークライフバランスの改善に伴う生活の質の向上プロセスを明らかにするとともに,それを可能にした諸条件の考察を行った.Lifestyle Migrationに関する日本国内における理論的・実証的研究はほとんど存在せず,本研究は非常に先駆的である.本研究では特に景観や自然といったアメニティとの関係性(Benson and Osbaldiston 2014)に焦点を当てることで,移住者の生活の質の向上を理解しようとした.
本研究では,移住世帯の移住経緯と,移住前後の労働・余暇の構造変化を明らかにすることで,上記の課題を検討した.研究対象地域として,良好なアメニティを有し,現役世代の熟練労働者の移住が卓越する地域の中から,移住者の仕事のスタイルが大きく異なる2地域(通勤就業卓越型の長野県軽井沢町,地元就業卓越型の神奈川県鎌倉市)を選定し比較を行った.
結果は以下の通りである.軽井沢町の現役世代移住者は子育て・ワークライフバランスに対する高い志向性をもっていた.この状況は,新幹線の開通を経た2000年代以降に卓越してきたことが記事資料によって裏付けられた.移住者は良好な子育て・ワークライフバランス環境を維持するために,軽井沢の自然環境との関わりを重視し,時間の使い方を綿密に意識したライフスタイルを構築していた.移住者は東京都心やその周辺で働く比較的高い職業階層の人々であり,子育て環境の悪化や仕事の忙しさからの逃避が移住動機の背景にあった.軽井沢の選択理由は,高級イメージや自然環境を挙げるが,一方で東京への交通利便性の重視がその背景にあった.鎌倉市の現役世代移住者は,鎌倉での日常生活の真正性を重視する志向性をもっていた.この状況は,2000年代以降の鎌倉市の産業構造の変化(宿泊業や飲食業の増加,IT産業の集積形成)の中で出現してきたことが記事資料によって裏付けられた.移住者は東京都心やその周辺で働く比較的高い職業階層の人々であり,東京での働き方や暮らし方,人間関係などを疑問視して移住を決断していた.鎌倉の選択理由は過去の観光体験,イメージの良さ,都心からの交通アクセスの良さなどが複合的に影響していた.移住者は鎌倉での暮らしを「シンプル」で洗練されたものとして認識し,鎌倉での人との関わりや自然との関わりの中で得られる精神的効果を仕事や生活の質の向上につながるものとして捉えていた.
これらを欧米圏のLifestyle Migration研究(LM研究)と比較して議論する.第1に,両地域における移住者の価値観・ライフスタイルには,特定の社会階層がもつ文化の影響が指摘される.LM研究では「生活の質の向上」という主観的感覚の形成に社会階層の影響が指摘されている(Benson and Osbaldiston 2014)が,その具体像は未解明である.本事例では中流階級的な消費嗜好や,クリエイティブ産業に従事する労働者の職業文化が生活の質の向上に影響を与えることが推察された.第2に,移住者が「生活の質の向上」という感覚を形成する背景には,移住目的が強い影響を与えていたことが指摘できる.移住者は移住目的を達成するために,自然環境との関わりの中で様々な実践を行い,その実践過程を真正なものとして捉える傾向がみられた.LM研究では移住の目的を「自己の真正性の認証」(Osbaldiston 2012)と位置付けているが,本研究はその一連のプロセスを解明することができた.第3に,首都圏における地理的・社会的条件の変化の影響が指摘できる.特に,都心部における待機児童問題の発生や狭小な住宅条件は,現役世代移住者の移住の決断の背景となった.さらに軽井沢・鎌倉ではバブル崩壊以降の地価下落,別荘・土地所有者の世代交代,交通条件の改善などが複合的に関係して,移住者の居住物件や職場の増加がみられた.
本研究は,生活の質とワークライフバランスを求めた熟練労働者の移住の一端を明らかにしたにすぎない.申請者は農村部への移住起業に関する研究も進めているが,今後はそうした事例との比較を行う必要がある.本研究は今後ますます拡大が見込まれる現代的な移住の動向を移住者側から捉える視点を提示したという点において意義をもつが,その際に欧米圏のLM研究の成果は重要な示唆をもたらすことが指摘できる.
【文献】
Benson and Osbaldiston. 2014.Understanding Lifestyle Migration. London: Palgrave. Osbaldiston, N. 2012. Seeking authenticity in place, culture, and the self: The great urban escape. London: Palgrave Macmillan.
2021年5月