成果報告
2019年度
19世紀イギリスにおける中産階級アートコレクター研究
- ヨーク大学美術史学科 博士課程
- 河出 奈奈美
動機・意義・目的
本研究は美術品コレクターへの注目を試み、「ビジネスとアートがどう結びつくか」「美術コレクションをビジネスとの関わりからどう捉え直せるか」という問いから19世紀イギリス中産階級コレクターについて研究するもの。芸術家及びその作品は美術史から当然注目され、ディーラーやオークショニア等仲介者も研究対象として注目されやすい一方、コレクターは従属的な扱いをされやすい。しかし彼らは美術品取引における重要な役割を占める。特に美術市場の発展した近代以降は買われなければ美術品は存在しがたく、取引の意思決定の主体である購入者ひいてはコレクターは重要性が高いと言える。また今回のパンデミックにおいても美術品売買は好調であり、美術品は現代においても投資対象として注目されることもある。よって今の時代に研究する意義もあるテーマと思料する。
コレクター研究は所蔵作品に関連した従属的な扱いでの単独の事例の研究になりがちである一方、コレクターを主として扱う先行研究には過度の一般化の問題がある。だが美術品取引は個別性・一回性が大きいこともあり、本研究では個人の個別の事例に注目しつつも単独の事例研究に終始しないよう努めた。複数の個別のコレクターの事例を取り上げ、美術作品の広告利用とコレクション、投機・投資と美術、事業に関する地誌的関心や所属業界・職業的ネットワークと趣味等の関連の観点から考察を行った。
成果・知見
中産階級の事業家のコレクションの多くは多かれ少なかれビジネス的な側面に規定されるとともに、そういったコレクターの研究を通して時代の変化も見ることができる。石鹸製造販売業、特にウィリアム・リーヴァーの美術作品の広告利用に関する事例は、美術作品の商業への利用に関する物議や広告利用に際しての図案改変等に対する抵抗、それらに対する「広告としての頒布により作品イメージをより広く大衆に届けられる」という反論にも繋がり、作品の複製に関する認識とともに著作権認識の変化・確立との関係が見出せる。またバーミンガムの炭鉱主、チャールズ・バーチの事例からはディーラーとコレクターの境界の曖昧さが示唆できる。彼は短期間に繰り返しオークションを開催し同一の絵画も繰り返し出品していたが、その中で売値を調整しようとした可能性が否めず、売るため、ひいては一種の投機のためのコレクションという側面があった可能性がある。その点ある種ディーラー的でもあり、ディーラーが専門職として確立していく過渡期のコレクターの事例であると言える。
加えて職業上の関心やそのネットワークの影響もコレクションから垣間見ることができる。例えばマンチェスターの綿花産業の事業家ウィリアム・コトリルは同時代の綿業を描いた作品を画家ドガからオファーされるが断っている。同地域・同業のコレクターは概ね保守的な趣味であり、コトリルもイギリスの特に古い世代の画家を中心としたコレクションを形成、風景画への選好を示していた。ドガ作品の拒絶は現代性・先進性、ひいては所有する事業との直接的な関連の意図的な排除であると同時に同地域同産業の趣味の反映でもある。一方ワインの輸入商であったフレデリック・コゼンスは当時のロンドンにおける先進的な芸術家コミュニティ、ホランドパークに邸宅があり、より前衛的な作品も所有していた。また事業は輸入業と国際的であり、美術品コレクションも多様な他国の作品を含む。これらは対照的な事例ながら両者とも事業上の関心を反映しており、また同業者・地域内の趣味の傾向の影響が見受けられると言える。
本研究はバーチ、コトリル、コゼンスといった従来ほぼ知られていない事例に光を当てることに繋がった。その一方でリーヴァーやフレデリック・レイランドといった比較的知られたコレクターの事例にも新しい見方を提供し、他のコレクターとの関係性や比較検討の可能性を提示した。例えばリーヴァーについては先駆的に美術作品を広告に利用した同業者との比較を行い、二者が一種競争的な様相を呈していたことを示した。またリヴァプールの海運業者レイランドの事例を通しては中産階級の社会背景や出自への意識が観察できる。彼の生活・コレクションは同時代人に「ヴェニスの商人」のようと形容されるが、これは自国の旧来の上流階級でなく他国の商業・海運の背景を共有する階層に範を取っていることを示唆すると言える。
課題・見通し
個への注目のあまり全体的な議論とのバランスを欠く側面は否めず、特に職業や地域に関する集合的なデータやより多くの比較事例を扱うことは補完的たりうると思われる。また特定の視点の掘り下げ、他のコレクターとの比較にも発展しうる研究であり、例えばリーヴァーの例同様ビジュアルイメージを多用した広告が多かった石鹸や薬品といった生活用品関係の実業家且つコレクターの事例、バーチ同様に繰返しオークションを開催している事例の調査及び比較検討などが可能かと考えている。
2021年5月