成果報告
2019年度
戦間期日本とドイツにおける文字改革運動の経済史的研究
- ペンシルベニア大学大学院歴史学科 博士課程
- 川嶋 稔哉
研究の目的と意義
日本語を漢字仮名まじりで、欧米の言語をアルファベットで書くことに疑いを抱く人は今や少ない。しかし20世紀前半の世界各地では、能率向上のために新しい文字体系を用いるべきとする文字改革運動が盛んに行われた。たとえば漢字を廃止しカタカナだけで日本語を書き表そうというカナモジ運動や、大文字をやめ小文字のみ用いようというドイツのバウハウスの一派などである。本研究は、今では忘れられつつあるこれらの運動を新たな視点から史的に分析することを目的とする。それを通じ、当時の社会における文字の役割のみならず、現代の我々の文字をめぐる認識を問い直すことが可能となる点に本研究の意義がある。その際、先行研究では十分に行われてこなかった経済史的、経済学的視点からの接近を試みる。
研究成果
以下ではまず日本での運動について論じる。カナモジカイは1920年代に阪神間の有力実業家らにより設立され、テイラー主義の思潮のもと日本語カタカナ表記化による経済能率の向上を訴えた。同会は会員数最大約2万人の大団体に成長し、戦中・戦後の漢字制限政策に大きな影響を与えたことが知られている。
近代東アジア各地の文字改革運動についてはカナモジカイを含め国内外の先行研究があるものの、同運動における実業界の役割や文字と経済の関係などの問題についてはそこでは概観的な理解にとどまっていた。本研究において同会が残した言説を経済思想史、政治経済学的な立場から分析することで判明したのは、主に次の二点である。
第一に、同会が文字についての独自の理論を案出しており、かつその理論が、カナモジカイの商工業者との強いつながりを背景に、経済学的思考という形をとっていたということである。カナモジカイは、そもそも新しい文字はいったいどのように普及するのか、またどうすればそれをより広く、確実に普及させられるのかといった点について一から理論を作らなければならなかった。本研究では、その際に同会が文字を「商品」と見ることにより、(文字以外の)既存の商品についての経済学的な理解を応用しえたことに着目した。すなわち、カナモジカイが文字利用者の動態を説明する際に用いた論理は、1980年代以降の経済学における商品普及や標準化についての理論を予期するものとなっていた。具体的には、同会が鉄道や洋服といった事例に文字普及をなぞらえる中で、その普及戦略をめぐる論考がネットワーク財や切替費用といった標準化についての現代経済学の概念を先取りするものとなっていることが判明したのである。本研究はそれを一次史料の発掘と刊行史料の再読に基づき明らかにした。新しい文字を(別の)経済活動の効率化のための手段として役立てようとしていたという視点は先行研究でも提起されてきたが、文字の普及という現象自体が経済学的思考の対象となっていたという点は見逃されてきた。またここでの議論は経済思想史の観点からも重要であり、文字のようにふつう経済現象と見なされていない対象をめぐる言説における経済学的発想を分析することの意義を提起するものである。
第二に、カナモジカイは企業・産業内部での能率向上を目指していたのみならず、政府の経済政策との強い関連を持っていたことを明らかにした。文字改革は同会にとって単なる業務改善の手段ではなく、大恐慌前後の産業合理化政策や国際金融政策の文脈で意義を持っていたことを、同会幹部と政府との人脈的つながりをたどることで示した。先行研究でこの点は示唆されていたものの、1920年代から30年代初頭の政治・経済状況の中でそれが具体的にどのように実現し、いかなる意義をもっていたのかについては十分、解明されていなかったのである。加えて、海外の日系移民共同体におけるカナモジ運動のありかたを分析することで、同運動の国際的な展開の新たな側面が明らかになった。
今後の課題
これまでは主として経済思想史的、政治経済学的な観点からカナモジカイの言説および人脈を分析してきたが、今後は同会がどのように運営されていたのか、その財源や会の内部組織といった点についても具体的な研究を行いたい。またこれまで一次史料の発見に努めてきたが、今後もそれを続けつつ、雑誌など刊行史料での言及にさらに綿密に目を通すことで当時の議論の全容を明らかにしたいと考えている。また文字改革運動の文化史的、政治史的意義についても分析を進める予定である。なお、ドイツにおける同時代の文字改革諸運動については、今般の渡航困難化に伴い、現地での史料調査を中止せざるをえなかった。刊行史料を分析した限りでは、テイラー主義の影響を受けている点や文字の起源をめぐる錯綜した議論が行われていた点などで日本の事例と類似しているため、比較検討を続けたい。
2021年5月