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研究助成

成果報告

若手研究者のためのチャレンジ研究助成

2019年度

9-10世紀アングロ=サクソン期イングランドにおける貨幣制度

東京大学大学院人文社会系研究科 博士課程
内川 勇太

研究の動機、意義、目的
 本研究は9-10世紀イングランドの貨幣制度に着目することで、同時期のイングランドの政治的統合過程を再考するものである。19世紀近代歴史学の開始以来、5世紀のローマ人のブリテン島撤退から11世紀のノルマン征服までのアングロ=サクソン時代の中でも9世紀から10世紀は、イングランド南西部のウェセックス王国主導のもとで現在のイングランド地域が複数の王国からイングランド王国へと政治的に統一される時期とされてきた。これはウェセックス王権をのちのイングランド王権、さらには近代の大英帝国の直接的起源とみなす単線的・目的論的なイングランド中心史観に基づくものである。しかし第二次大戦後こうした歴史認識に疑義が呈され、1980年代以降イングランド人の王国成立の過程は諸段階に分けてより精緻に考察されるようになった。その際貨幣は新発見の期待できない文字資料に比して、毎年膨大な個別発見貨や埋蔵貨が出土しており、同時期に対する認識を大きく塗り替えてきた。
 その中で本研究は当初王権による貨幣製造の地域差の解明を目的としていた。一般に貨幣制度の統一はヴァイキングからの国土防衛に成功したウェセックス王アルフレッド(治世871-899)の孫エセルスタン治世(924-939年)に定められた『グレイトリーの定め』で目指された一方で、単一貨幣の製造・流通によりそれが実現するのはアルフレッドのひ孫エドガー治世(959-975)晩年の改革以後のことであるとされる。従って本研究は出土貨幣のデータを網羅的に参照することで、エセルスタン治世からエドガー改革以前の貨幣発行状況の地域的偏差を明らかにし、エドガーの改革以降の単一貨幣制度の下に隠されてしまったかもしれない諸地域の独自性に光を当て、イングランドの政治的統合と理解されてきた事象の実態に迫ろうとした。しかしコロナ禍で貨幣の現地調査を断念することになり、代わりに『グレイトリーの定め』に含まれる貨幣制度関連条項の検討を通じて、イングランドの政治的統合の時期にあたるアルフレッド治世からエセルスタン治世までの貨幣制度を、エドガーの改革の準備期間ではなくそれ自体として捉え、その特徴を明らかにするとともに、同時期の政治的統合過程の中に位置づけることを目指した。

研究成果、研究で得られた知見
 第一に、『グレイトリーの定め』前後の行政文書や法史料との比較検討および貨幣製造場数の増加過程の考察を通じて、『定め』の貨幣制度関連条項はエセルスタンの父エドワード古王治世(899-924)の910年前後から918年までに成立したことを論証した。第二に、『定め』がエドワード治世に成立したことを前提とすることで、同王の支配地域の拡大過程を従来よりも詳細に跡付けることができた。具体的にはアルフレッド治世には半ば自立していた、旧マーシア王国地域であるブリストル・エイヴォン川流域、テムズ川流域、セヴァーン川流域への漸次的な支配権拡大が明らかとなった。第三に、『定め』に規定された「一つの貨幣制度」がエドガー改革以後の統一された意匠(デザイン)・量目(重さ)・品位(銀含有率)を持つ貨幣の製造・流通を指していることを前提に、改革以前の貨幣を不統一と評価してきた従来の学説に対し、法史料の比較検討や改革以前の貨幣の出土状況から「一つの貨幣制度」とは「イングランド地域内でイングランド人の王が製造した高水準な品位と量目を持つ貨幣のみが排他的に流通している状態」であると結論付けた。以上の知見は2021年度中に雑誌論文として刊行予定である。

今後の課題、見通し
 貨幣史の射程は長く、一般に理解されている経済史の一分野であるのみならず、本研究のような制度史・政治史研究、さらには図像学的研究や科学的分析もなされている。そして国家の枠組みを超えて流通したイングランド貨に着目することで、アングロ=サクソン期イングランドを狭隘なナショナリズムの文脈から、前近代における世界システムあるいはグローバルヒストリーの文脈に位置づけ直す契機ともなりうるだろう。
 また本研究は現在執筆中の博士論文の一部を構成する。博士論文は、王権による貨幣製造権の独占が、イングランド人の教会への統制、統治における古英語文書の使用とならんで、8世紀末から10世紀半ばにかけてのイングランド人の王国の成立、および10世紀末からノルマン征服に至る危機の時代、さらにはそれ以降もイングランド人の王国が一つの政治体として継続したことの主たる要因であったことを論証するものである。

 

2021年5月

現職:東京大学大学院人文社会系研究科 特任研究員

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