成果報告
2019年度
万葉考古学の創始
- 奈良大学文学部 教授
- 上野 誠
本研究は、万葉歌を作者の心情の表出として捉えるのみならず、歌の「場」と、その「場」の都市空間における機能との関連性を捉えようとする共同研究である。
古代都市「大宰府」とその周辺地域において踏査を行い、万葉歌が集中的に残された地点の調査を実施した。これにより①大宰府周辺、②博多湾岸、③怡土・志麻、④松浦、⑤粕屋〜宗像・遠賀の各地域において、都市域の「内と外」、それを区切る「境界」の分布空間モデルを試行し、分布マップを作成した。また、水城跡との比較において、新羅の境界に築かれた慶州・関門城の踏査も併せて行った。研究成果発表としては、令和元年9 月22日に奈良大学において研究会を行った。題目は、小鹿野亮「古代交通遺跡と万葉集−大宰府の南と西東−」、田中真理「日本古代の詩・歌における“龍門“」、菅波正人「原大宰府の風景−7世紀の博多湾沿岸の動向−」、鈴木喬「万葉びとの境界意識」で、活発な意見交換を行うことができた。
本研究における万葉歌と古代遺跡、交通路との関係において、最も象徴的なのは水城である。大伴旅人の大宰府最後の場面として、『万葉集』に収録されている。水城には2つの門があり、それぞれ、海外(唐・新羅)と宮都への交通路がのびていた。古代の迎賓館である筑紫館(後の鴻臚館)、そして都へ通ずる山陽道へとつながる道である。交通路としては宮都へ通じる山陽道(大路)が優位であった。
そして水城は、平野から見える古代最大の構築物であると同時に、海と陸を至上初めて遮ったというその「境界」性と「象徴」性を示すものであった。ゆえに、その後も命脈を保ち続け、大伴旅人が大宰府から都へ帰任する際に、水城から去っていくという象徴的な「境界」と万葉歌(心情)が絡んでいるものと推測される。
こういった視点で万葉歌と交通路を比較してみると、大宰府からは6道が放射状、かつ複線的にのび、それによって生じた衢(交通結節点)や駅家において詠まれた歌群の集中エリアが、大宰府を中心とした「圏域」をなすように展開していることが分かる。大伴旅人帰任をはじめ、送別宴が行われたとされる蘆城駅家は、現在でも阿志岐の地名が残っており、関剗や衢が点在する羅城と称された大宰府の東境界に位置し、先の水城に対していることが認識できる。
今回の共同研究によって、『万葉集』における大宰府関連歌の理解がより立体的になった。一方で、他の万葉故地との比較研究が今後の課題である。そのため周辺地域の葬地や、瓦の供給などの遺物の移動や交易などを包括的に検討し、都をはじめとした他の万葉故地との相対化による比較研究として追求したい。また、日本以外にも唐の長安城・洛陽城やその周縁域(関)などとの比較研究が重要である。官人たちの各所での儀礼行動と詩・歌などとの関連性について、東アジア的な視点で研究を深めていきたい。
2020年9月