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研究助成

成果報告

2019年度

旧ユーゴスラビア諸国をめぐる冷戦後日本の外交――紛争予防外交と平和履行プロセスへの役割

慶應義塾大学大学院法学研究科 後期博士課程
ペリチ マルツェラ

 冷戦終結に伴って、中東欧諸国は自由民主主義的な政治体制と市場経済に転換し、NATOやEC/EUに加盟する方針を明らかにした。日本は、ヨーロッパにおける地域主義の拡大によって、経済摩擦の可能性が大きくなることを予測した。そのため、日本は、中東欧との関係を見直すことを重視した。政治体制の転換によって生じた問題から、いくつかの多民族国家が崩壊し、民族紛争が発生した。その代表的な事例が、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(旧ユーゴ)であり、旧ユーゴ崩壊後に新たに独立した国家同士による戦争である。旧ユーゴでの戦争は、ヨーロッパ国際秩序全体にとっての安全保障の脅威となった。それは、難民の流入などの人道的な問題や国際経済の停滞として現れた。そして、このようなユーゴ危機は、湾岸戦争の際に「小切手外交」と批判を受け安全保障にいかに貢献するかを模索していた日本にとって、戦争防止や予防外交の手段を発展させる機会になった。
 本研究は、冷戦後の西バルカン安定化をめぐって、日本はいかなる外交政策を展開したのかを分析し、その背後に存在した動機を明らかにしている。ここでの西バルカンとは、スロベニアを除く旧ユーゴ諸国とアルバニアを指す。日本は、世界約50か国からなる和平履行評議会の運営委員会でアジアでは唯一のコアメンバーとなっており、非軍事的分野で活躍していた。だが、経済大国として、また世界第2位のODA分担金供出国としての日本の国際貢献は、国際社会では軽視され、過小評価されてきた。確かに当時の日本は憲法上の制約のため軍事力手段の行使はできなかった。しかし、その代わりに西バルカンで行った経済的な支援や人道的な支援は、文民分野における日本の貢献であった。
 本研究は、米・欧・日という自由主義世界の三つの極のうち、欧州と日本の関係に着目して、日本と旧ユーゴ諸国との関係を分析している。1991年当時のECにとって最大の課題は、ユーゴ戦争の解決であった。日本はECとの関係を発展させようと可能な範囲で協力することにした。第一章では、危機が最初に始まったクロアチア共和国に対する外交政策を分析している。日本は「間接的アプローチ」を用いて、国際連合、欧州復興開発銀行、CSCE/OSCE、G7のような多国間の枠組みを通して外交を進めた。地理的にも遠く、利害関係のあまりなかった日本は、中立性を期待されて1993年のCSCEミッションに参加した。その際、セルビアとモンテネグロにおいて少数民族の人権状況を監視し、紛争の発展防止に努めた。国連安保理の常任理事国になるためのアピールのためにも、旧ユーゴ地域の安定性を高め、西バルカンにおける将来の利益を保護することは、重要な試金石となった。
 第二章では主に、復興が課題となっていた戦争終結後、1995年以降を対象に、日本の役割を分析している。クロアチアからボスニアへと広がった戦争は、より激しさを増したため、日本には両国において非軍事的な手段で予防外交を行う余地がなかった。だが、戦争終結後、膨大な経済的支援や人道的支援をすることで復興に参加した。日本の援助は、UNHCRとの共同プロジェクトという形をとった。このプロジェクトは1995年、河野洋平外務大臣の訪問の際に決定された。同年11月にはクロアチアで「顔の見える支援」という難民シェルターを建設した。
 1990年後半は、コソボでの危機に伴って、マケドニアに紛争が広がる可能性が高まった。第三章では、その際に日本がどのような外交政策を展開したかを論じる。コソボ危機は、ヨーロッパでの民族紛争の最後の事例となり、国際社会は再び協力して解決を目指した。日本は、中立の立場を保ちながら、人道危機に対応した。コソボ危機は、日本の多国間主義的、間接的アプローチとして「人間の安全保障」が採用される契機となった。外務省はマケドニアで予防外交を展開し、コソボで人間の安全保障を実践した。コソボ危機を通して、ヨーロッパの安全保障に日本が関わることは、EUとの政治的・経済的な協調を進展させるために重要であった。そのEUと日本の協調は、1991年のハーグ宣言を経て、2001年の「行動計画」の成立に至った。この計画により、日本がコソボでの人道支援に貢献したように、EUによる朝鮮半島情勢への地域を越えた協調を期待することができた。
 以上の分析から、1990年代と2000年代における西バルカンをめぐる日本外交のダイナミズムが明らかとなった。つまり日本は、西バルカンへの関与を通じて、非軍事的、平和主義的外交をグローバルな場で展開し、国際社会に積極的に貢献する姿勢を示したといえる。
 これらの外交は、西バルカン諸国における共産主義から自由民主主義国家への転換に大きく貢献したという意味で、「間接的なレジーム変換政策」だった。また、日本の「総合的安全保障」には予防外交が含まれており、西バルカンを安定化させることを通じて、「人間の安全保障」という手法も発展させた。このように、日本は非軍事的な分野で政策の幅を広げたといえるだろう。


2021年5月

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