成果報告
2019年度
中華人民共和国成立初期の「自己宣伝」:アジア太平洋地域平和会議をめぐる宣伝工作
- 東京大学大学院総合文化研究科 博士後期課程
- 徐 偉信
一、研究の動機、意義、目的
1949年、中国大陸を支配する中華人民共和国が成立し、中華民国政府は中国大陸での支配権を失い、台湾へと移転した。1950年代の国際社会において、中華民国政府は依然として中国の国連代表権を保持しており、多くの国に中国正統政府として承認されていた。そのため、中華人民共和国の国際参加は制限を受けていた。社会主義陣営国家や数少ない資本主義国家と国交を結んでいた中華人民共和国は、中華民国政府を否定し、自ら「唯一正統な中国政府」を主張するため、どのような「自己宣伝」を行ったのだろうか。
1952年10月、37カ国の代表が参加したアジア太平洋地域平和会議は中華人民共和国首都の北京で開催された。一部の国際関係史研究者はコミンフォルムと世界平和評議会の活動などの角度から、この会議がソ連の「平和攻勢」の一策であると分析した。また、中国近現代史の研究者は、この会議を中華人民共和国で初めて開催される多国間会議として評価した。ただし、アジア太平洋地域平和会議に関わる中華人民共和国の内政と外交政策に対して、従来の研究は資料公開の状況に制限され、多くの課題が残された。
そのため、本研究は中華人民共和国、アメリカ、日本の公文書や公刊資料に基づいて、中華人民共和国の対外「自己宣伝」の角度から、中華人民共和国政府がいかにアジア太平洋地域平和会議の舞台を利用し、国際社会に発信したのかを分析する。そして、冷戦および朝鮮戦争のなか、中華人民共和国が国際社会に自らの「正統性」を示すために行った宣伝活動をより適切に把握する。また、北京、上海、湖北などの地方文書館の文書を利用し、中華人民共和国がアジア太平洋地域平和会議開催前後に行った政治宣伝キャンペーンを中心に、国際社会に「認められる」というイメージをいかに国民に持たせたのかを明らかにする。その上、中国共産党が新政権に対する信頼を国民に持たせようとした歴史の過程を分析し、中国共産党の影響が国民の生活にいかに浸透したか考察する。
二、研究成果や研究で得られた知見
まず、本研究はいままでの中華人民共和国の外交史研究を踏まえ、歴史学のアプローチから中華人民共和国の対外「自己宣伝」の性格を把握した。日、米、英、中などの国の外交文書と新聞、刊行物に対する分析により、本研究は会議で掲げた「民族独立」と「平和共存」の宣伝スローガンが、後の「平和五原則」の一つの原点であることを明らかにした。また、中国共産党の文献集や党指導部メンバーの回顧録と年譜に対する考察によって、会議をめぐる中華人民共和国の対外宣伝から見た中国外交政策は「対ソ一辺倒」という従来の理解と異なる可能性を提示した。
次に、本研究は北京、上海、湖北省、浙江省などの中国地方公文書館の開示文書を収集し、内政と外交を結び付け、多元的視角で立体的な中華人民共和国の政治宣伝像を検討した。アジア太平洋地域平和会議開催前後、朝鮮戦争が膠着状態になっており、中国の一般民衆が新政権に対する不信感を抱き始めた。新政権に対する信頼を国民に持たせるため、中国共産党は宣伝キャンペーンを行い、会議の開催を新政権の外交成果として民衆に誇示した。その結果、中国共産党の政治影響力と「反米親ソ」という国際認識は新聞、ラジオ、漫画、宣伝隊などのメディアを通じて、中国の基層社会に浸透した。
最後、本研究はアジア太平洋地域平和会議の日本人参加者に関する公文書や個人記録を利用し、1950年代前半における日本社会の対中イメージの変遷を明らかにした。第1次日中民間貿易協定締結を機に、中華人民共和国は会議開催直前に日中友好の雰囲気を醸し出した。地方見学と観光によって、日本人参加者は新政権の「建設現場」を覗いて、中国の一般民衆と交流できた。マスメディアを通じて日本人参加者の中国見聞は日本社会に伝えられ、日中国交正常化前の日本知識人の対中イメージ変化に深く関わった。
三、今後の課題・見通し
今後の研究課題としては、まず本研究で得られた知見をいかして、冷戦期の政治外交史のなか、「政治宣伝」から生み出す中国近現代史研究のアプローチと東アジア国際関係史研究の新たな作法をまとめる。そして、引き続き多くの公文書と個人記録を収集し、東アジア冷戦の形成と戦後中国政治・社会の変容を関連付け、中国共産党の政治宣伝に対する理解を深める。個別の事例、宣伝モデルの分析等を積み重ねることにより、研究の成果と発見を日本国内と海外の学術誌に投稿し、多くの研究者に紹介したい。また、中国研究と国際関係史、両分野の対話によって、多元的な歴史研究を目指し、戦後東アジアの歴史認識と冷戦記憶に関する知見を広げたい。
2021年5月