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研究助成

成果報告

2019年度

フランス中世のパネル型聖遺物容器研究――《リブレット》を中心に

東京大学大学院人文社会系研究科 博士課程
太田 泉 フロランス

1、研究の意義、目的
 本研究は、14世紀後半にヴァロワ朝フランス王シャルル5世の命により制作され、王の長弟アンジュー公ルイ1世に贈られた《リブレット》と呼ばれる聖遺物容器について、美術史的展開の中に位置付け、関連作品を含めた包括的な議論を行い、中世後期の金細工研究、とりわけ聖遺物容器研究の包括的進展の一助となることを目的とするものである。
 本作は中央パネルと左右に3つずつの翼部を持つ多翼型の純金製の聖遺物容器で、中央パネルにはサント・シャペルに安置され仏王家の権威を保証した、キリスト受難ゆかりの一連の聖遺物からの欠片が収められている。王権と密接な関わりを持ち、技術的、美的にも極めて高い価値を有し、中世後期に流行したアルマ・クリスティ図像を伴うことで個人的祈念の実践にも用いられたと考えられる本作は、同時代の金細工工芸作品の中で聖俗の両観点から見て稀有な意義を有する作例である。しかしながら、一次史料の不足や、早い時期にフランスから持ち出され、15世紀以降一貫してフィレンツェに留まった事に起因してか、これまでその重要性に対して充分な研究がなされてこなかった。
 《リブレット》に関する研究の進展は、十字軍による略奪や贈与などを通じてビザンティン帝国から流入し、以後西欧でも盛んに制作されたパネル型聖遺物容器(スタウロテク)の系譜に関する既存の研究に更なる展開を生じせしめるのみならず、近年盛んに研究成果が発表されている個人的祈念に関する美術作品研究にも一定の新知見をもたらしうるものである。聖遺物とアルマ・クリスティ図像の関係について、H.ベルティンク(2004)による聖遺物と図像との「互恵関係」論を発展させることにより、本作が両者の「合一」とも言える稀有な作例であることを示すこととなり、ひいては聖俗のあわいに制作された中世後期の金細工工芸作品の体系的研究にも寄与する、国際的にも新たな知見をもたらすものと考えられる。


2、研究の進捗状況
 本年度は、新型コロナウイルスの世界的な流行のため、上半期に予定していたパリ、フィレンツェ、フリブール(スイス)での調査・短期研究滞在の遂行、ジュネーヴ大学及びドイツ美術史研究所における学会発表が叶わず、計画に変更が生じることとなった。しかしながら既に入手していた文献資料や昨年度の調査資料を元に以下のような研究の進展が得られた。
 第一には、《リブレット》が有していたと考えられる携帯性についての具体的な知見である。本作の修復を担当した国立フィレンツェ修復研究所の協力のもと、昨年度に行った調査及び聞き取りで以下の情報を得ることが出来た。まず本作の前面及び背面に施されたニエロ象嵌と思われていた細工が、ガラス質のものではなく、天然の樹脂によるものである可能性である。次いで、後世の置き換えの可能性があった両翼における雲母片の使用が制作当時のものであるということ、更には聖遺物の欠片及び説明書書きの羊皮紙製の札に使用された接着剤の素材が明らかになった。天然樹脂と雲母に関しては、本作はかなり早い使用例であり、14世紀末には他には殆ど見られない。また両素材がニエロ象嵌やクリスタルに比して安価であることに鑑みると、国王の註文制作である純金製の本作への使用は矛盾するように思われるが、それぞれ衝撃に強く、薄く軽量であるという特徴からみて、本作では携帯性が重視されていたとみる申請者の推測を支持するものと考えられる。
 第二には、これまで明らかになっていなかった両翼の聖遺物の銘文についての新知見である。本作の両翼、72点の聖遺物に付された羊皮紙に書かれた銘文の札は、損傷のため判読が不可能であった。実は本作とは別に、王シャルル5世は自らのためにも近似した聖遺物容器を制作させていた。この作品は、後にシャルル8世がイタリア遠征に持参するも敗戦し、戦利品としてヴェネツィアの手に渡った後失われたものの、その概容は著述家マリン・サヌードが纏めた文書抜き書き集『リブリ・コメモリアリ』の記述によって知ることができる。ヴェネツィア州立文書館にて行った調査で得た当該写本の画像資料から、ヴェネツィア方言に翻訳されたかたちで記された43点の銘文を判読することが出来た。これらの聖遺物は従来諸聖人のものと推定されていたが、実際にはキリストや聖母マリアのものも含まれることが新たに判明し、《リブレット》全体の構成が明らかになりつつある。以上の内容は、国外での口頭発表を経た上で、国内外で論文として公刊する予定である。


3、今後の課題・見通し
 上記の具体的な成果はいずれも報告者の仮説を裏付け、《リブレット》の保持していた複合的機能(祈念的・王権顕示的・タリスマン的・顕示的消費等の機能)や美術史的な特質を明らかにすることに資するものである。本研究の成果によって、携帯用聖遺物容器についての体系的研究が遠からず実現可能と考えられ、将来的には聖遺物容器研究ないし中世金細工工芸研究の国際的発展に資すると思われる。今後は、本年度遂行の叶わなかった作品・一次史料調査を速やかに遂行し、本作を多翼式聖遺物容器や携帯用金細工作品及び祈禱書の歴史的変遷の中に精緻に位置付けた上で、博士論文にまとめフリブール大学への2021年度中の提出を予定している。


2021年5月

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